11代王・中宗(チュンジョン)には3人の妻がいた。最初の妻は父が燕山君(ヨンサングン)の側近だったために離縁させられた端敬(タンギョン)王后。2人目の妻は12代王・仁宗(インジョン)を産んですぐに亡くなった章敬(チャンギョン)王后。そして、3人目の妻が文定(ムンジョン)王后である。
文定王后が王を毒殺?
文定王后は、若くして亡くなった章敬王后の代わりに仁宗(後の12代王)を育てる立場になった。
しかし、自分の子ではない仁宗を彼女はうとましく思い、常に邪険に扱った。そうした感情は、中宗との間に息子を授かるといっそうひどくなっていった。
義母に憎まれながら王になった仁宗。しかし、文定王后は執拗に彼の命を狙い自分の息子を王にしようと画策していた。
結局、1544年に即位した仁宗はわずか8カ月で世を去った。
文定王后に毒殺されたと言われている。
文定王后の息子は13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。
しかし、明宗は12歳と幼く、文定王后は政治を代行した。
彼女は身内だけで政治を独占した。朝鮮王朝は彼女の意のままになったのだ。
こうした政治体制は、明宗が20歳を超えても変わらなかった。
明宗も母の横暴なやり方を止めようとしたが、完全に権力を掌握されていたためにできなかった。
明宗は母の暴政に何度も涙したといわれている。
1565年、文定王后は64歳でこの世を去った。明宗はようやく自ら政治を行なえる立場になった。
しかし、母の暴政の心労がたたってか、2年後にわずか34歳で世を去った。
息子の国王の命を縮めたのは、母の文定王后かもしれない。
コラム提供:チャレソ
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