【時代劇が面白い】武官の李舜臣(イ・スンシン)

 

船上での戦死
有能な司令官である李舜臣を失った朝鮮王朝の水軍は、これまでの連勝が嘘のように敗北を重ねていく。
後のない奸臣たちは手の平を返すと、李舜臣を再び水軍統制使に就けた。しかし、度重なる敗北によって彼の手に残されたのはわずか12隻の船だけだった。しかし、持ち前の創意と工夫で李舜臣は水軍を立て直していく。

1598年8月、少ない兵力の中で懸命に戦い続ける李舜臣の下に、豊臣秀吉死亡の情報が入ってきた。
豊臣軍が撤退することを察知した李舜臣は11月に総攻撃を開始した。
この戦闘によって、豊臣軍の多くの軍艦が沈没した。
圧倒的な勝利に沸き立つ王朝軍。しかし、最前線に立って指揮していた李舜臣に流れ弾が襲い掛かった。自身の死を覚悟した李舜臣は、自分のそばに息子を呼び寄せて次のように語った。

「私の死を知れば士気が下がる。盾で私の姿を隠してお前たちが残りの指揮を取れ」
李舜臣は死ぬまで戦い続けたまさに「不滅の将軍」だった……。
朝鮮王朝の危機を救った李舜臣。今もソウルの中心部には彼の銅像が設置され、人々を見守っている。

庶民から怨まれた14代王・宣祖(ソンジョ)はどんな人生を歩んだのか

もしも光海君(クァンヘグン)が長く国王であったならば

仁穆(インモク)王后は光海君(クァンヘグン)の斬首に執着した!

光海君(クァンヘグン)と仁穆(インモク)王后の激しい対立の理由は?

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コラム提供:チャレソ

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2021.03.01