【時代劇が面白い】『王女の男』に登場する敬恵王女の生涯/前編

 

叔父を激しく憎んだ
よほど居心地が良かったのだろう。端宗はひんぱんに敬恵王女の屋敷にいるようになった。とうとう、端宗は姉の屋敷を時座所(シジャソ)に指定してしまった。この時座所は、王の臨時の宮殿を意味している。以後は、姉の屋敷に常駐する端宗の姿が見られるようになった。
1453年、端宗の叔父にあたる首陽大君(スヤンデグン)はクーデターを起こして、端宗を補佐する高官たちを次々に殺害した。この政変によって、朝鮮王朝の政権は完全に首陽大君の一派に牛耳られるようになった。

こうした情勢の中で、首陽大君から危険分子と見られたのが、敬恵王女の夫である鄭悰だった。彼は、首陽大君に反抗した罪を問われて、江原道(カンウォンド)の寧月(ヨンウォル)に流罪となってしまった。
端宗の側近たちを次々に排除した首陽大君は、1455年に端宗を上王にまつりあげて、自分が王座に就いた。7代王・世祖(セジョ)の誕生である。

弟は退位させられ、夫は流罪にされた敬恵王女。叔父を激しく憎んだ彼女は、あえて自分が病床にあることを公表した。これは、敬恵王女なりの抗議の意思表示であった。
世間の人たちは、「敬恵王女が心労によって倒れたのだろう」と噂した。それはとりもなおさず、「世祖がひどいことをしたのが原因だ」という話に結びついた。
(中編に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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コラム提供:チャレソ

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2021.02.02