朝鮮王朝27人の王の中で、今も尊敬を集めている4代王・世宗(セジョン)。彼は、在位中にある大きな功績を残したが、いったい何をしたのだろうか。世宗の偉大さについて語っていこう。
幼いころから聡明だった
朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)の三男として生まれた忠寧(チュンニョン)。朝鮮王朝時代は、原則的に長男が後継ぎとなるのだが、忠寧には兄が2人いたので、もともと王になれるはずがなかった。しかし、これまでの王家の代替わりを見てみると、意外と長男が王になっている例は少ない。実際、太宗も五男でありながら王になった人物である。
そんな太宗には、自分の後継ぎを誰にするかという悩みがあった。原則を守るならば、後継ぎは長男の譲寧(ヤンニョン)だが、太宗は三男の忠寧に王としての資質を感じていた。そんな父親の考えに譲寧が気づいた。最初は戸惑いを見せた譲寧だが、「自分より頭のいい忠寧が王になれば国も安泰になるはずだ」と思った。すると、彼は無能を装うという大胆な行動に出た。
その結果、譲寧は陰で側近たちから嘲笑されるようになる。さらには酒浸りになり、王宮を抜け出しては放蕩を繰り返した。ついに、譲寧は王位を継承する権利を剥奪されてしまう。
二男の孝寧(ヒョニョン)は、兄の行動に驚きを隠せなかったが、「自分が父上の後を継ぐことになる」と思うと、一層勉学に励んだ。しかし、そうしていくうちに自分の限界を感じて、さらには兄である譲寧の行動の意図を理解したのである。その後の孝寧の行動に迷いはなく、弟の忠寧に後継ぎの座を譲り、頭をまるめて仏門に入ってしまった。
父と2人の兄に認められた忠寧の聡明さを示す、多くの逸話が残っている。
幼いころから本を読むことが好きだった忠寧。10代のときに長く病床に就いていたことがあったが、それでも本を読むことを止めなかった。見るに見かねた太宗は、側近に本をすべて隠すように伝えた。しかし、忠寧は屏風の裏にあった本を1冊引っ張り出して、それを何百回も読んだのである。
1418年、忠寧は4代王・世宗となった。実際に実権を握っていたのは父親の太宗だったが、まだ若くて経験の足りなかった世宗にとって、悪いことではなかった。そして、1422年に太宗が世を去って、世宗は正真正銘の王となったのである。
もともと聡明だったうえに、経験を積んで実務にも慣れた世宗は大いに力を発揮した。類まれなる指導力は政治や経済、文化や社会など幅広く及んだ。
世宗は、王に集中していた権力を分散させ、後継ぎにも一定の権力を与えた。その理由は、王に不備があった際に混乱が起きないようにするためだった。彼はとても国民を愛し、臣下の者たちを信頼した。さらに世宗は人事を活用することにも優れており、身分が低くても能力がある者には役職を与えたのだ。しかし、その一方で、コネによって人事を歪めることを極端に嫌った。それについては、こんな話がある。
世宗が寵愛していた女性が、「私の兄に役職を与えてください」と頼み込んできた。本来なら願いをかなえてあげたいところなのだが、世宗はそれをはっきりと断り、以降はその女性を遠ざけてしまう。
さらに、世宗は側近たちの手を煩わせることもしなかった。
彼が病気になったとき、側近が「効能に優れている白い雄鶏、黄色い雌鳥、羊の肉を献上いたしましょう」と言ってきた。しかし、世宗は「我が国には羊がいないではないか。病気を治すためとはいえ、むやみに殺生してはならん」と断った。本当にとても優しい心を持った王だった。
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