「コラム」女子プロゴルフが強い理由

日本から見て、驚くことが多い韓国のスポーツ界。女子のゴルフ選手たちの強さにもビックリさせられる。今や世界最強のレベル。その最大の功労者が、すでに引退してしまった朴セリだ。彼女がいたから、韓国の女子プロゴルフ界はここまで強くなれたのだ。

救国の孝行娘

1998年に朴セリは世界の女子ゴルフ界のメジャー大会に2勝した。それは、特筆すべき快挙だった。
「彼女は偶然のシンデレラじゃない。国が困難なときに現れたジャンヌ・ダルクだ」
当時、朴セリの2冠制覇に歴史の必然性を感じるという声を何度も聞いた。その頃の韓国は未曾有の経済危機で、国の経済が破綻寸前に追い込まれていた。そんな中で、スポーツを通して朴セリは国民を奮い立たせるという重要な役割を演じた。
朴セリが優勝する度に韓国の主要新聞は「私たちの娘が世界を制した」という見出しを連発した。「私たちの」という言葉の中に誇らしげな気持ちが垣間見えた。過剰なまでに自尊心が強い韓国の人たちにとって、経済危機で自信を失いかけたときに、再び立ち上がる勇気を与えてくれた朴セリは救国の孝行娘だった。彼女が「韓国のジャンヌ・ダルク」に例えられたのも、十分な根拠があるのだ。
勝ち方もオーラを感じさせた。1998年5月の全米女子プロでは、初日から最後まで1位を誰にも譲らず、底知れぬ強さで史上最年少優勝(20歳)を達成した。さらに、2冠目はドラマ仕立てだった。

1998年7月の全米女子オープンで朴セリは、壮絶なプレーオフの末に宿敵を下してメジャー2勝目をあげた。
途中、靴と靴下を脱いで川に入り、水中のボールを打って窮地を脱するというドキドキの場面もあった。後にこのシーンは、韓国政府が大々的に行なった「第二の建国」キャンペーンの主要映像として使われ、テレビで繰り返し放送された。あたかも、韓国の将来を委ねる若者の代表が朴セリであるかのように。
このスーパースターの誕生秘話も「ビックリ」の連続だった。
事業に失敗した父親によって、朴セリは最初から富と名声を得る手段として小学校5年からゴルフを始めさせられた。
「毎朝5時に起きて、マンションの15階の階段をダッシュで5回昇り降りしろ。しかも、下りは後ろ向きに降りるんだ。風邪を引いても休むな」
10代前半の少女に父親が命じたトレーニングはあまりに苛酷だった。
だが、「娘がつぶれるか、自分が破産するか」という断崖絶壁に追い込まれていた父親は、親の情をすべて捨て去って娘を鍛えた。

さらに、父親は地元のゴルフ場に娘の素質を売り込んで、無料で練習できる特権をつかむと、1日1000球の打ち込みを朴セリに課した。真冬に、クラブを持つ娘の手のひらが血でにじもうとも、見て見ぬふりをした。
父親は、夜の墓場に朴セリを置き去りにしたこともある。
精神力を鍛えるためだった。
韓国は土葬の国である。墓地も広い敷地が必要なため、ほとんどが山の中腹にある。そんな人里離れた暗闇の中で置き去りにされたら、大人でも恐怖で顔が引きつる。
我が子を谷底に落とすどころか、さらにその谷底に岩を蹴落とすような仕打ちを父親は繰り返した。
「借金を踏み倒して逃げるような奴が、今度は娘をくいものにしている」
周囲の人たちは父親を露骨に非難した。だが、父親思いの娘は、一つも泣き言を言わなかった。
「パパが他の人に無視されるのが絶対にイヤ。私が有名になれば、誰もパパを笑ったりしない」

儒教社会の韓国ではいまだに「男尊女卑」の風潮が残っているが、女性は日陰にいながらでも常に一家の真の支えであり続けた。秋霜烈日が続いた20世紀の韓国がその苦難に耐えてこられたのも、辛抱強く逞しい女性の働きがあったからこそだ。その芯の強さを朴セリも見事に受け継いでいた。
父親も鬼だが、韓国ゴルフ協会も恐ろしい。10代なかばで国家代表候補になった朴セリは、年間200日間の強化練習で鍛えられた。
極めつけは軍事訓練だ。軍人用の精神強化プログラムを繰り返し受けさせられ、緊張した場面でも動じない精神を作り上げた。
こんな強化訓練は、日本では考えられない。鍛えるときに容赦ないのが韓国流と言うべきか。その凄まじさには本当に驚かされる。
朴セリは成功し、彼女のようになりたいと願う娘たちがこぞってゴルフを始めた。もちろん、朴セリのように苛酷な練習を続けた。真似のできない練習量が、今の韓国女子選手の強さを築いたと言える。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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