朝鮮王朝最高の名君と称された4代王・世宗(セジョン)の長男が世子(セジャ)となり、二男の首陽(スヤン)大君には王になる望みがなかった。しかし、野心家の彼はあきらめなかった。その末に、起こったのが王位強奪事件であった。
甥を脅かした叔父
世子は1450年に即位して5代王の文宗(ムンジョン)になったが、わずか2年3か月の在位で亡くなった。
学識に優れていた上に温厚な性格だったので、その死を誰もが惜しんだ。
後継者は文宗の長男で、1452年に端宗(タンジョン)として即位した。
まだ11歳だった。文宗は亡くなるまで端宗のことを心配していて、しっかり守ってくれるように側近たちに頼んでいた。
その側近たちがもっとも警戒したのが首陽大君だった。彼は幼い王を補佐するという名目で、王権にことごとく干渉してきた。
そして、ついに「陰謀の嫌疑あり」という理由で端宗の側近たちを次々に殺害。端宗に対しても強圧的な態度を取ってきた。
24歳も上の叔父におどかされて、ついに端宗は首陽大君に王位を譲らざるをえなくなった。こうして首陽大君は1455年に7代王の世祖(セジョ)になった。
しかし、世祖への風当たりは強かった。
「泥棒のように王位を奪った」
世間ではみんながこう噂した。
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