「コラム」追憶の中の韓国晩秋紀行2「友鹿里」

友鹿里の風景

韓国南部の大都市の大邱(テグ)。この街から車で南に向かう。やがて低い山が見えてきた。どの山もお椀を伏せたように形がよく、木々も見事に紅葉して、秋の風景に彩りを添えていた。目がなごむ田園の景色を楽しみながら、友鹿里(ウロンニ)をめざす。そこは、日本武将の子孫たちが住む村である。

沙也可の里

文献によると、1592年の朝鮮出兵のとき、豊臣軍の精鋭だった加藤清正の部下で「沙也可(さやか)」という武将が、義のない戦いを嫌って朝鮮に上陸するやいなや朝鮮王朝側に付いたという。
沙也可は武勲を朝鮮王朝の国王から褒めたたえられ、金忠善(キム・チュンソン)という姓名を賜り、領地として友鹿里を与えられたのである。
この友鹿里は、今では大邱から車で30分ほどの距離だ。
村に入ると、川沿いにイチョウの並木通りが続いていた。イチョウは圧倒されるほどに
美しく黄葉していて、青い空をバックに熱狂的な輝きを放っていた。
やがて書院の前に出た。そこは沙也可こと金忠善を祭るところで、正門から入ると小高い丘を背に重厚な瓦の堂が建っていた。
金忠善の遺品を展示する書院でパンフレットをもらったので、中庭の石段の上に腰掛けて金忠善の人物像を紹介する文章を読んだ。

金忠善の子孫たちが先祖を敬う祭祀を行なっている

それによると、金忠善は日本に生まれながら朝鮮半島を慕い、この地に移り住んでからは、帰化人としての己の使命を際立たせるために戦乱の平定に奔走していたという。誠に数奇な運命をたどった人物だといえる。
書院の見学を終えると、今度は裏山の中腹にある金忠善の墓に向かった。実は、11月の日曜日に子孫たちが各地から集まってきて、1年の恵みを先祖に感謝する祭祀(チェサ)が行なわれるのである。
この日に集まったのは30人ほど。長老らしき年配者は韓服を着て身を正していた。残りの人々は直立して式次第を厳粛に見守っていた。
韓服を着た進行役の人が、金忠善から続く直系の子孫たちの名を呼びあげる。参列者は頭を垂れて墓に正対していた。
これが韓国だと思った。生活の中に祭祀があり、祭祀の中に生活がある。それが韓国の原風景なのである。
祭祀が終わると、墓の周囲で野宴の準備となった。先祖に捧げたものを全員で楽しくいただこうというわけだ。特に、蒸かした鳥肉をナタでぶつ切りにしている光景がそこかしこで見られた。

私は、ヤカンに入ったマッコリ(にごり酒)をお椀になみなみと注いでもらった。米で作った韓国の伝統的な酒で酸味がある。濁りかたにも手作りの感じがよく出ていて、粗野な感じも野宴によく似合っていた。飲んでみると、アッサリしていて酸味が舌に心地よかった。
みんな、顔が赤く染まっていい色になっていた。マッコリの酔いが、血液を通してからだの隅々まで行き渡るようだった。その心地よさを失いたくなくて、勧められるままにさらなる杯を重ねた。
紅葉が美しい秋の1日、友鹿里の人々が自分の先祖を今も敬っていることがよくわかった。

(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム提供:ヨブル

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2020.11.28