文定(ムンジョン)王后は仁宗(インジョン)を毒殺した疑いがきわめて高い。朝鮮王朝の歴代王には「毒殺されたのではないか」という疑惑がかなりあるが、それらは噂にすぎないものも多い。しかし、仁宗の毒殺説だけは信憑(しんぴょう)性がある話として今の韓国でも広く伝えられている。
文定王后の申し出
仁宗が亡くなった当時の出来事を見てみよう。
1545年6月17日、側近が仁宗に報告した。
「明日、昼の祭祀の後に、挨拶に来るようにと大妃様からの仰(おお)せがありました。しかし、殿下の体調があまり良くない上に陽気も暑いので、無理をされると重病になるかもしれません。ぜひお控えください」
それに対して、仁宗は首を振った。
「余は健康を取り戻した。暑くても長い間祭祀を中断するわけにはいかない。息子として、しなければいけないことができないようでは余は悲しい」
こう答えた仁宗は、翌日祭祀を済ませ、文定王后を訪ねた。そのとき、彼女から餅を勧められた。いつでも鬼のように接する継母がこの日は上機嫌だった。それをうれしく思った仁宗は、出された餅をそのまま食べた。
その直後から仁宗は下痢がひどくなった。侍医の診察を受けて様々な薬を調合してもらったが、体調は悪化するばかりだった。
6月26日になると、仁宗は高熱に苦しめられて気を失ってしまった。深刻な容態となったので、侍医たちは相談して王宮の中でもっとも静かな別閣に仁宗の病床を移した。
一種の転地療養のような効果があり、仁宗の意識が戻り、彼の容態が少し落ち着きを取り戻した。
侍医たちがホッと一息ついたこのときに、突然騒動を起こしたのが文定王后だった。彼女はこう命令を下した。
「殿下の病状がとても危険だという。私は王宮を出て王女の家に留まりながら、殿下の病状を見守りたい」
この言葉に出てきた王女とは、文定王后の娘である。要するに、この緊急時に他家に嫁いだ娘の家に行きたいということなのだが、これを聞いた重臣たちの間からは反対意見が噴出したのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:チャレソ
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