邪魔したのは誰か?
明宗は、教養のある王であった。
しかし、母の摂政が長かったために成人後にも独自の政治理念を発揮することができなかった。
そして、実母と叔父が悪政を続けた。
不運にも16世紀なかばには凶作が続いた。人々の暮らしは困窮したが、もはや政治が民を救済することはできなかった。
1565年、文定王后は64歳で人々の怨嗟(えんさ)が満ちあふれたこの世を去った。こうなると、取り巻きの立場は一気に危うくなる。文定王后の威光にすがっていた尹元衡と鄭蘭貞は逃亡した末に自決せざるをえなくなった。
このとき明宗は31歳。混乱した国政を立て直すことを期待されたのだが、もはや彼には生気が残っていなかった。
1567年、明宗は33歳で亡くなった。
名君になる素質があったのに、それをことごとく邪魔したのが、2年前に世を去っていた実母の文定王后だった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)