1623年3月12日の明け方、仁祖(インジョ)に統率された1000人あまりのクーデター軍が王宮を襲い、光海君は王の座から追放された。そのとき、クーデター軍は光海君の罪状を4つ掲げた。それが、反乱を起こした大義名分になったのだ。
王宮の再建は必要だった
クーデター軍が大義名分として挙げた4項目とは何か。以下の通りである。
1.多くの土木工事を行なって民衆の負担を大きくした
2.兄弟たちを殺した
3.中国大陸の明に対して背信行為をして、後金と密通した
4.仁穆王后を幽閉した
この4項目について検証してみよう。
1の土木工事について。
朝鮮半島は豊臣軍との戦い(1592年から1598年まで)で国土が荒廃しており、その復興をなしとげる必要があった。
光海君が即位した頃は王ですら満足に住む王宮がなく、彼が王宮の再建を急いだのも当然だった。
なお、クーデター軍は光海君が民衆の負担を増やしたことをやり玉に挙げたが、むしろ光海君は大同法によって納税制度を改善し、土地を持たない人たちの税負担を軽くしようとしていた。民衆に過剰な負担を強いたとは決して言えないのだ。
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