思悼世子(サドセジャ)
帰国後の昭顕世子と仁祖は険悪な仲になり、わずか2カ月で昭顕世子は急死してしまった。一説によると、仁祖とその側室によって毒殺されたという。
もし、昭顕世子が王になっていれば、朝鮮王朝はどうであっただろうか。
先進の文明を取り入れて改革が成功したかもしれない。そういう意味では、大変惜しい急死であった。
2人目は、思悼世子(サドセジャ)である。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子であり、小さいころから神童と呼ばれるほど頭脳明晰だった。
しかし、当時の主流派閥だった老論派(ノロンパ)を批判したために、極度に老論派から警戒されてしまった。
思悼世子自身にも問題があり、素行が悪かった。側近に暴力を振るったり、側室を殺したりしたこともあった。こうした素行の悪さが老論派によってさらに歪められて英祖に報告された。
これによって、思悼世子と英祖の親子関係が極度に悪化した。最終的に思悼世子に王位を譲れないと考えた英祖が、息子に自害を命じた。
しかし、思悼世子はひたすら謝罪するばかりで自害しなかったので、英祖は米びつの中に息子を閉じこめてしまった。
結局、その中で餓死してしまった思悼世子。世子の無残な死は、朝鮮王朝の中でも最大の悲劇と言われている。
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