外交が巧みだった光海君(クァンヘグン)は暴君というよりも名君?

 

二股外交の成功
明に対しては守るべき最低限の礼儀は果たすものの、明の滅亡とともに国家が滅んでしまっては何にもならないので過度には協力しない、というのが光海君の姿勢でした。
一方、後金は明らかに自分たちにとっては蛮族でしたが、侵攻を防がなければならないので、最悪の状況を想定して光海君は外交努力をしました。
結果的に、この二股外交は成功しました。これが光海君には外交上の業績が多いという根拠です。

その逆だったのが次の王でした。1623年に光海君はクーデターで王宮を追われ、後を継いだ16代王・仁祖(インジョ)は露骨に後金を蔑み、結局は侵攻を許してしまいます。すでに後金は国名を清に変えていましたが、仁祖は清の皇帝の前にひざまずいて許しを請うという屈辱を受けます。それは1637年1月のことですが、明らかに外交の失敗でした。
仁祖の政治があまりにひどかったので、なおさら光海君の優秀さが際立ちます。

ただし、光海君は骨肉の争いを経て王位に就いた人で、結果的に兄弟を殺していますから、多くの怨みを買っています。それが1623年のクーデターにつながりました。
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2020.01.01