繰り返される暴政
最初は「戊午士禍(ムオサファ)」である。 燕山君は、道義と名分を重んじる士林派の高官たちを目の敵にしており、何かと口うるさかったため、そんな士林派を容赦なく弾劾した。この事件の呼び名の由来は、1498年の戊午の年に起きたからだ(「士禍」とは、朝鮮王朝時代に派閥党争などが原因で官僚や学者たちが犠牲になった事件を指している)。
次はその6年後の1504年、甲子の年に起こった「甲子士禍(カプチャサファ)」だが、この事件は「戊午士禍」よりも酷い出来事である。
生まれてからずっと母親である斉献王后の愛を知らずに育った燕山君。父親である成宗が口止めをしていたため、周りの者たちも斉献王后のことについて語ろうとはしなかった。しかし、出世欲に目がくらんだ者が母親の追放されたときのことや死罪となったことを燕山君に話してしまう。それを聞いた彼は一晩中泣き続けた。
その後、燕山君は斉献王后の復位を望むが、周りから「罪人を復位させるなどとんでもない」など反対の意見が多くあがった。彼はその意見をすべて無視して、母親の死罪に関わった者たちや母親の復位に反対した者たちを処刑した。さらに、すでに亡くなっている者に関しては、墓を掘り返して首をはねた。
それらの暴政に耐えきれなくなった庶民たちは、「女と酒のことしか考えてない最低な王だ」とか「あんなやつを王とは認めない」など燕山君を批判する文をあちこちに書いたのである。庶民たちのそんな行動を知った燕山君は、「今後、ハングルを使用することは許さん」と言って、庶民がハングルを使うことを禁止してしまった。
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