大国による信託統治
植民地支配から解放された8月15日の当日には、独立運動を主導した有力者を中心にして朝鮮建国準備委員会が組織された。彼らは、9月6日には朝鮮人民共和国の樹立を宣言したのだが、実体がともなっていなかった。すでに、38度線を境界として「南側にアメリカ軍、北側にソ連軍」という分割占領策が始まっていたからだ。
それは、独自政府を熱望する朝鮮人民の気持ちを否定するものだった。
12月27日、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国がモスクワで外相会議を開き、朝鮮半島を5年間にわたって共同信託統治にすることを決めた。
これがモスクワ宣言である。
一方的な信託統治に対する朝鮮人民の怒りは大きかったが、その一方で、植民地時代に独立運動で名を馳せた有力者の間でも志向の違いが顕著になった。
特に、植民地時代に満州との国境付近を根拠地にパルチザン活動を行なった金日成(キム・イルソン)と、主にアメリカで独立運動を続けて解放後に帰国した李承晩(イ・スンマン)は、めざす方向がまるで違った。結果的に、左派と右派の対立が深刻になっていった。
1946年2月8日、平壌で北朝鮮臨時人民委員会が発足した(後に正式な北朝鮮人民委員会となった)。委員長は金日成だった。
すかさず、2月14日には南朝鮮に大韓民国代表民主議院が設立された。李承晩が議長となった。
いずれにしても、金日成の後ろ楯はソ連であり、李承晩はアメリカの軍政に支えられていた。両者は米ソの意向に逆らうことはできなかった。
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