「コラム」日韓の二千年の歴史15/元寇

元寇の際に作られた防塁が今も博多湾に残っている

日本は、7世紀や8世紀に中国大陸の唐や朝鮮半島の新羅に使節を派遣して政治制度や生活様式を学んだ。しかし、国内で政治体制を確立してからは隣国との接触に積極的ではなくなった。以後、日本は大陸にあまり目を向けなくなった。その間に朝鮮半島の情勢はどのようになっていたのか。

元の領土的野心
高麗(コリョ)王朝は918年に建国されたが、初代王の王建(ワン・ゴン)が希代の英雄として活躍し、936年に朝鮮半島を統一した。その後は典型的な仏教国として高麗は朝鮮半島唯一の政権を築いたが、異民族の侵入にいつも苦しめられた。その中でも最大の脅威が蒙古だった。
高麗は、最強の蒙古に都の開京(ケギョン/現在の開城〔ケソン〕)を攻められた。1231年のことである。
多大な犠牲を払いながら抵抗し続けた高麗。一旦は両国の間で和議が成立したが、蒙古の野心が消えたわけではなかった。和議は破綻し、高麗はさらに蒙古から厳しく侵攻された。
結局、40年ほどの激戦の末に高麗は蒙古に屈伏。以後は過酷な蒙古の支配が始まった。1271年に蒙古は国号を「元」と改めた。
元の領土的野心は、次に日本に向かった。そのとき、元は高麗の兵力と経済力を徹底的に利用した。高麗は日本を攻めるための船を900隻も造らされたうえに、多くの兵士が先兵の役目を負わされた。


元軍2万人と高麗軍6000人が朝鮮半島の南岸を出発したのは、1274年(文永11年)の10月3日だった。まずは対馬と壱岐が占領された。勢いに載る元・高麗連合軍は、10月19日に博多湾に侵入し、翌日から上陸を開始した。
こうして文永の役が始まった。
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2019.05.18