「コラム」韓国人が考える本当の「謝罪」について

「形」を見せなければならない

国家レベルになると、話が違ってくる。
2015年の年末に実現した「従軍慰安婦問題の日韓合意」。韓国世論では「日本が正式に謝罪していない」という意見が大勢を占めている。その結果、日韓合意の見直し論が韓国で勢いを得てきた。
ただし、日韓合意では日本の総理大臣の謝罪の意思も入っている。しかし、韓国ではその謝罪は受け入れられていない。「口先だけ」と思われているのだ。
日本では歴代の総理大臣が何度も植民地支配の謝罪を表明している。だが、その謝罪が韓国では実に印象が薄い。それは、なぜなのか。謝罪と同時に「形」を見せていないからではないだろうか。
韓国の新聞の社説を読んでいると、よく引き合いに出される出来事がある。1970年12月に西ドイツ(当時)のブラント首相がポーランドを訪問し、首都のワルシャワでユダヤ人犠牲者追悼碑の前でひざまずいて献花したことだ。

確かに、「ひざまずく」という行為は、何を語らなくても謝罪という行為を明らかにしていたが、特に被害者意識が強かった韓国人にとっては鮮明だった。なぜなら、形をともなう謝罪こそが、本当の謝罪だと韓国では見なされるからだ。
そうなのである。韓国では謝罪を受け入れてもらおうとすれば、かならず形をともなわなくてはならない。
思い出すのは、大統領を務めた全斗煥(チョン・ドゥファン)が、退任後の1988年に、在任中の様々な不正疑惑が露呈したときのことだ。彼は国民の前で謝罪し、そのうえで、地方の寺で謹慎生活を送った。
この謹慎こそが、全斗煥が見せた「形」だった。彼にとっては屈辱だっただろうが、ここまでやらないと、謝罪の言葉を真に受けてもらえない。それでも、国民に許してもらえるかどうかは別問題なのだが……。(ページ3に続く)

2017.08.18