張禧嬪が呪詛をする必要があったのか
2つ目の根拠。
粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后は、長い病気の末に1701年8月に亡くなっている。それから40日後に、トンイが粛宗に「張禧嬪が仁顕王后を呪い殺そうとしていた」という告発を行なっている。
ただ、非常に怪しいのは、仁顕王后が亡くなってから40日も経ってから告発したことである。トンイがその事実を知っていたのであれば、なぜ、もっと早く言わなかったのだろうか。
実際に、仁顕王后の屋敷の周りから、呪詛(じゅそ)に使ったと思われる呪いの品物が発見されている。しかし、それを張禧嬪が埋めたという証拠は1つもない。たとえば、トンイが自分で埋めて告発したとも言える。その準備のために40日もかかったのではないだろか。
このとき、粛宗の息子は、張禧嬪が産んだ世子(セジャ)とトンイが産んだ二男がいた。張禧嬪は、そのまま何もしなければ、自分の息子が王になれる。しかし、トンイの場合は二男であるため、張禧嬪の息子を排斥しなければ、自分の息子が王になれない。
しかも、すでに長い病床にあった仁顕王后はもう長くは生きられなかった。そんな王妃を、張禧嬪が危険を冒して呪詛する必要はまったくないのである。
むしろ、トンイのほうが張禧嬪を陥れる必要があり、それがこの告発だったのではないかという推理も成り立つ。(ページ3に続く)