全斗煥と盧泰愚
1987年4月、全斗煥は突然の声明を発表して、翌年9月のソウル五輪までの憲法改正論議を禁止した。
そのうえで、年末に行なわれる予定の大統領選挙を国民が自ら選ぶ直接制ではなく、5000人以上の選挙人による間接制で実施することを発表した。これでは、全斗煥の意をくんだ候補者が次期大統領に選出される状況となってしまう。
国民の大反対にもかかわらず、大統領間接選挙を強行しようとした与党の民正党(民主正義党)は、6月2日に青瓦台(大統領官邸)で要職者会議を開き、党代表委員の盧泰愚(ノ・テウ)を次期大統領候補に推挙した。
盧泰愚は、全斗煥と陸軍士官学校11期の同期生である。全斗煥が政権を獲得するきっかけとなった粛軍クーデター(朴正煕暗殺事件の後の1979年12月12日に起きた事件で、全斗煥将軍がその後の権力掌握の流れをつくった)において、盧泰愚は第9師団長として全斗煥を支援し、クーデター成功に大きな役割を果たしている。
その後、盧泰愚は政界入りして体育相、内相を務め、全斗煥政権を支えるナンバー2として実績を積んできた。彼は6月10日に党大会で正式に次期大統領候補に選出されたとき受諾演説を行ない、自由な社会の構築、言論の活性化、地方自治の実施などを約束した。さらに、凍結となった改憲問題は翌年秋のソウル五輪終了後に再論議して、議員内閣制への移行を行なうと言明した。
これに対して、第一野党の民主党(統一民主党)は激しく反発。党総裁の金泳三(キム・ヨンサム)は、現行憲法で大統領間接選挙を行なうならばボイコットすることを表明した。第一野党が選挙に不参加となれば、平和的政権委譲といううたい文句も怪しくなってしまう。民正党としてはぜひとも民主党を同じ土俵に乗せたいと画策した。
一方、在野勢力の反政府運動は激化する一方で、民正党が党大会を開いた6月10日には、「朴鍾哲君拷問死隠蔽糾弾大会」を全国各地で開く予定だった。
しかし、警察は約5万8000人の戦闘警察(機動隊)を動員し、大会を阻止しようとした。特に、中心的人物(約700人)を自宅軟禁にする強硬策に出た。拘束された人物の中には、民主化推進協議会共同議長の金大中(キム・デジュン)も含まれていた。
この過剰な取り締まりに反発した学生たちは、全国の主要都市で戦闘警察と衝突。市民を巻き込んだ抵抗運動はついに最大規模となった(中編に続く)
文:康 熙奉(カン ヒボン)
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