学問を軽視した王
もう1つは、幼少期の教育係について、である。
燕山君は、たとえ学問に精通していて人望がある教師であっても、自分に厳しくした人に恨みを抱き、即位後には処刑するという非道なことを行なっている。
こうした2つの逸話を通しても、燕山君の執念深さと残虐性が垣間見れる。
ただし、即位した当初の燕山君は、庶民の生活に配慮する政治を行ない、名君だった成宗の死を悲しむ人たちを一応は安心させた。
たとえば、燕山君は役人たちの不正を取り締まるために、国家の秘密調査官である暗行御史(アメンオサ)を全国に派遣した。
また、宮中の人材を充実させるために、特別な試験を行なって有能な臣下を迎え入れたりもした。
さらに、北方の女真族(旧満州地域に住んでいた狩猟民族)の動きが活発になると、その平定に尽力した。
こうした善政がある一方で、燕山君は他の歴代の王と同じく、朝廷内で権力を握ろうと企てる官僚たちとの対立に翻弄された。
彼は気性が荒く、軍事面には興味を持ったが、学問を軽視した。そのため、成宗時代に台頭した士林派(勉強熱心な儒学者たち)と幾度となく衝突した。(3ページに続く)