始まった「父子の確執」
英祖の命令によって思悼世子が政治の一部を仕切るようになったのは14歳のときだった。このとき、陰で思悼世子を邪魔したのが老論派の重臣たちである。
こうした批判勢力は思悼世子の悪評を英祖の耳に入れた。息子が心配でならない英祖はその度に思悼世子を呼んで叱責するのだが、それがまた父子の確執を生んでしまった。
ただ、思悼世子自身も反省していなかったわけではない。彼は世子としての自分の立場を自覚し、1757年、22歳のときに承政院(スンジョンウォン/王の秘書室)に反省文を提出した。
その内容は次のようなものだった。
「私は不肖の息子であり、がさつで誠実さが足りません。本来なら子として道理をわきまえなくてはならないのに、行き違いがあまりに多かったようです。それは誰の過ちでしょうか? もちろん、不肖の息子の過ちです。ようやく、自分の至らなさに気がつきました。心から後悔している次第です。今後は、自らを叱りつけて、過ちを正し、気質を変えていこうと思います。もし、このことを実行できずに過去と同じであったならば、それは私の過ちがさらにひどくなるだけです。王朝のすべての臣下たちよ、私の意思をそのまま受け取り、正しい道に導いてください。それが私の願いです」
この反省文は英祖のもとにも届けられた。
彼もよほどうれしかったようで、次のような感想をもらした。
「とても感心なことだ。まるで地上に昇ってきた太陽を見るような思いだ。早く世に知らせ、改心したことを公にせよ」
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