「コラム」第9回 高麗王朝の歴史(前編)/康熙奉(カン・ヒボン)の「簡潔に読む!韓国の歴史」

世界最強の蒙古

1170年、武人たちはクーデターを起こし、文官を追放して、自分たちの意のままになる明宗(ミョンジョン)を即位させた。

明宗は第19代の高麗王として1197年まで在位したが、実権は武人側にあり、ここに朝鮮半島では珍しい武人政権が続いたのである。このあたりの経緯は、ドラマ『武人時代』に描かれている。

とはいえ、武人が司る政治はまとまりを欠いた。

有力な武人が自分の勢力拡大をはかり、私兵を強化して争いを起こし、国内はなかなか平穏を取り戻せなかった。

そんな高麗にとって常に頭痛の種となっていたのは、北方民族や中国の巨大王朝の存在であった。高麗の前期には、北方に位置する契丹や女真族との争いに神経をすり減らしていたし、中国大陸で蒙古が勢いを得ると、その干渉をしきりに受けるようになった。

ついに、1231年に蒙古の大軍が攻めてきた。

高麗も必死に戦ったが、なにしろ相手は当時世界最強の蒙古である。高麗としてはへりくだって講和を結ぶのが精一杯だった。しかし、領土拡張を国是とする蒙古は講和を破って何度も攻めてきた。

やむなく、1232年、高麗は都を開京から江華島(カンファド)に移した。蒙古は海戦が得意ではなかったので、島に移れば相手も攻めきれないだろうという読みがあったからだ。

急場しのぎの遷都は意外と効果があり、高麗はなんとか蒙古の攻撃をしのいだ。なにしろ、都は40年間近くも江華島から移らなかったのである。

(後編に続く)

 

文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム提供:ロコレ
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2016.09.27