王位継承と光海君の処遇について
仁穆王后が幽閉されてから「10年の間に誰も見舞いに来なかった」という不平を聞いた使者は、彼女が怒っていることを綾陽君に伝えた。
綾陽君は、王宮に王族や高官を警護する儀仗兵を配置して仁穆王后を迎えようとしたが、彼女はそれに応じなかった。
その強硬な態度を知った綾陽君は慶運宮を訪れ、処罰を受ける覚悟を持って門の前でひれ伏した。そんな綾陽君に、「大きな功績を上げて、次の王となる者をなぜ処罰する必要があるのか」という仁穆王后の言葉が伝えられた。
その後、仁穆王后は綾陽君を中庭に通すことを許可した。彼女は中庭で泣いている綾陽君を見て、「泣かないでください」と優しい言葉をかける。しかし、クーデターの成功を確信して泣いていた彼は、自分が大きな罪を犯したことを謝罪した。
すると、仁穆王后は「幽閉されている間は、情報がまったく入ってこないようにされていたが、今日のような日が来るとは思っていなかった」と感激に身を震わせた。
その後は、王位継承に関することで話し合いが行なわれた。中でも仁穆王后が一番関心を示したのが、光海君の処遇についてである。
光海君の死を望む仁穆王后
仁穆王后は、光海君に強い怨みを抱いていた。自分の息子である永昌大君を殺害されたあげく、慶運宮に幽閉されたのだから当然である。
彼女は、綾陽君に「この日が来ることを幽閉されてからずっと待っていました。光海君は私の手で処刑したい」と言った。
しかし、仁穆王后のその命令を実行するのは難しかった。なぜなら、今までに臣下の者たちが、追放された王を処刑したことがないからだ。それでも、仁穆王后は「私は必ず怨みを晴らさなければならないのです」と言った。
それに対して臣下の1人が、「11代王の中宗(チュンジョン)様が、10代王の燕山君(ヨンサングン)を廃位にしたときの事例を参考にしてみてはいかがでしょう」と述べたが、仁穆王后にとっては、燕山君の罪よりも光海君の罪のほうが重かった。その後も問答は続くが、彼女は光海君を斬首にすべきという主張を変えなかった。
一方の綾陽君は、いくら廃位にしたとはいえ、先王を斬首にすれば、大きな批判が起こることを知っていて、仁穆王后の主張を容認することはできなかった。
こうした仁穆王后の主張は、1623年に綾陽君が16代王・仁祖(インジョ)として即位した後も続いた。仁祖は彼女の言い分を聞かずに、光海君を江華島(カンファド)に流罪にした。
1632年、仁穆王后は世を去った。一方、多くの人から怨みを買った光海君は、最終的に済州島(チェジュド)に流され、廃位から18年後の1641年に世を去っている。
仁穆王后にとって、光海君の死を見届けることができなかったことが、一番の心残りだったことは間違いない。
文=康 大地【コウ ダイチ】
コラム提供:ロコレ
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