第5回 余大男(前編)
熊本に出掛けてみると、地元では今でも英傑として加藤清正が讃えられていることがよくわかる。タクシーの運転手さんも「熊本の歴史に残る人物といえば、まずは加藤清正公です」と大きな声で言っていた。ただし、江戸時代に熊本を治めたのは細川家であり、その末裔からは総理大臣まで出ている。それでも、地元での名声は加藤清正が断然、という雰囲気だ。
加藤清正の廟所
豊臣秀吉の子飼いの武将であった清正が肥後(現在の熊本県)に入ったのは1588年だった。朝鮮出兵を考えていた秀吉が、その布石としてまず清正を九州に配したと言われている。実際、清正は1592年から始まった文禄・慶長の役では、豊臣軍の先兵の役割を果たした。
その清正が熊本城で病死したのは1611年。享年50歳だった。遺言によって、彼が深く帰依していた日真上人の草庵の近くに葬られた。それにともなって、もともと清正が建立した本妙寺(ほんみょうじ)も、彼の廟所に移された。
今、JR熊本駅からタクシーに10分ほど乗ると、中尾山にある本妙寺に行くことができる。この寺は清正の菩提寺としても著名であり、石段をかなり上り詰めると清正の墓となっている淨池廟にたどりつく。
この淨池廟は、りっぱな造りの神殿のようだが、中に清正の木像を安置してあり、その下に彼が葬られている。つまり、淨池廟全体が清正の墓になっているのだ。
ただ、外からは建物の一部を眺めることしかできないので、清正の墓と言われても実感がわかない。むしろ、中尾山の8合目あたりにある清正の銅像を見たほうが、よほど彼のイメージを膨らませることができる。
13歳の利発な少年
清正の銅像は、見上げるほどに高い台座の上に立っている。銅像も大きさが約8メートルもあるので、ずっと見上げていると首が痛くなる。
そんな私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)たちをはるかに見下ろすような形で、銅像の姿をした清正は槍を持って熊本城のほうをにらんでいる。
私は首の痛さに耐えながら、しばし清正の銅像を見続けていた。彼によって運命を大きく変えさせられた朝鮮半島出身の少年のことを思いながら……。
豊臣軍が朝鮮半島に攻め入ったのは1592年だった。
以後、秀吉の死によって豊臣の軍勢が引き揚げるまでの6年間、朝鮮半島は凄惨な戦場となった。その中で、朝鮮半島の数多くの人たちが豊臣軍の武将たちによって日本に連れ去られた。専門的な技術や学識を持っているという理由で、陶工、儒者、僧侶たちも捕虜となったが、その中には聡明な少年たちも含まれていた。
当時、儒教社会だった朝鮮半島では漢籍の素養が重んじられていた。そこで、四書五経を習得した少年たちを日本に連れ帰って将来儒者や僧侶にして藩内の文化を発展させよう、という意図を持った武将も少なからずいた。その代表格が清正である。そして、彼が慶尚道(キョンサンド/朝鮮半島南東部の地域)で見つけた利発な少年が、13歳の余大男(ヨ・デナム)だった。
戦乱の中で寺に避難していたこの少年は、清正の配下の者につかまり、大将の前に引っ張りだされた。
そのとき、少年はスラスラと漢詩の一節をすばらしい書に仕上げた。その達筆ぶりに清正は心から驚いた。
まさかの手紙
当時の日本は、戦国の世が終わったばかりだった。長く続いた戦争によって民心は荒れ、庶民は学問をする余裕すらなかった。それだけに、読み書きができない子供が多かったのもやむをえなかった。
そんな現状を知る清正にとって、余大男は天才にも思えたことだろう。感激した清正はこの少年を連れ帰り、師とも仰ぐ僧侶の日真上人に託した。こうして、13歳の余大男は慣れない異国で新しい人生を始めなければならなくなった。
清正は日蓮宗の熱心な信者であった。
彼は聡明な余大男を日蓮宗のりっぱな僧侶にしたいと考えた。その指示に従って、余大男は剃髪をして僧の見習いとなった。
彼は、その時点で両親は亡くなっていると思っていた。豊臣軍の出兵によって故郷は激しい戦乱に巻き込まれたので、両親が生きているとは到底考えられなかったのである。
「僧侶として父母を一生とむらっていこう」
余大男はそう決意して、仏の道に入った。
清正の信頼が厚い日真上人に支えられ、余大男は京都でも修行を積んだ。僧侶として大成した彼は、1609年に29歳の若さで本妙寺の住職となり、日遙上人と呼ばれるようになった。
この時点で本妙寺はまだ熊本の城内にあったが、清正の死後はその廟所に本妙寺を移築することになった。この点でも余大男は大いに尽力し、その名声は領内に轟いた。
そんな彼は1620年、40歳のときに驚愕すべき手紙を受け取った。その差出人は、亡くなったと思っていた父の余天甲(ヨ・チョンガプ)だった。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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