第3回 植民地統治
1910年に日韓併合が行なわれ、朝鮮半島は朝鮮総督府によって統治されるようになりました。この朝鮮総督府は天皇に直属し、日本の内閣からも独立した存在として朝鮮半島における立法・行政・軍事の権力を一手に握っていたのです。その根本は軍事力による統治ということでした。朝鮮総督が現役の陸海軍大将から選ばれたことも、その武官専制を象徴していました。
土地を奪われた人々
朝鮮総督府の初代総督は日本の陸軍大臣との兼務となった寺内正毅。彼は最初から朝鮮半島の人々に対して「服従か、さもなければ死か」という強圧的な態度で接しました。
朝鮮半島では言論・集会・結社の自由が完全に奪われ、1911年には朝鮮教育令が公布されて日本語による臣民教育が本格的に始まりました。
また、朝鮮半島の権益を強化する経済政策が次々に打ち出されましたが、とりわけ朝鮮民衆を困窮に陥らせたのが土地調査事業でした。固定資産税徴収のための私的所有権の確立と地形の調査が名目でありましたが、実際には多くの土地が日本人地主や国策会社に払い下げられて、大半の農民が土地を失いました。その一部の流浪の民は、やむなく日本や満州に渡っていったのです。
さらに、朝鮮総督府は会社令によって、朝鮮半島の民族資本の産業を著しく制限しました。必然的に生活に困窮する人たちが続出しました。そんな民衆の抗日感情が沸点に達したのが1919年3月1日だったのです。
3・1独立運動
伏線となったのが、1919年1月に朝鮮王朝26代王・高宗(コジョン)が亡くなったときに、朝鮮総督府による毒殺説が流布したことでした。民衆が憤怒する中で独立をめざす人たちが直接行動を起こすことを決意し、3月1日の「独立宣言書」の発表につながりました。
それは、京城(ソウル)のパゴタ公園で、独立運動家たちによって起草されました。
「われらはここにわが朝鮮の独立国たることを宣言する」
この言葉で始まる独立宣言書が発表された直後から、民衆が「独立万歳」と叫びながらデモを行ない、その示威行動は学生・市民・農民たちによって全土に波及していきました。これが「3・1独立運動」です。
しかし、日本の官憲は強圧的にデモを取り締まり、7600人以上の死者が出ました。この事態に日本は大きな衝撃を受けたのです。
「軍事力だけでは朝鮮民衆の反対運動を抑えることはできない」
そう痛感した朝鮮総督府は、以後は強圧的な武断統治を改めざるをえなくなりました。採用された方法は「懐柔策」と呼べるものだったのです。言論や集会の抑圧もややゆるめられ、民族資本の経済活動が許容される場合もありました。
しかし、朝鮮民衆の受難は続きました。1923年9月1日に関東大震災が起こったとき、「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を入れた」「朝鮮人が日本女性を襲った」という流言飛語が広まり、結果として6千人以上の朝鮮人が虐殺されたと言われています。土地を奪われて日本に渡った末の悲劇でした。
上海で組織された大韓民国臨時政府
思想的に朝鮮民衆を日本に同化させる政策も大々的に進められました。
1925年10月15日には、京城(ソウル)に朝鮮神宮が竣工しました。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇でした。
朝鮮総督府がこの神宮を造営したのは、天皇崇拝を朝鮮半島に浸透させるためでした。その目的に沿って、朝鮮半島各地に60余の神社が建てられました。これを手始めとして皇民化政策が次々に打ち出されていったのです。
1926年には、朝鮮王朝最後の王だった純宗(スンジョン)が世を去りました。その国葬が行なわれたのは6月10日でしたが、「独立万歳」「日帝打倒」を訴える学生たちと日本の官憲が衝突しました。
どんなに植民地統治の懐柔策が出されても示威活動はなくなりません。むしろ、1929年には、光州(クァンジュ)で日本人学生が朝鮮の女学生を侮辱したことがきっかけで激しい抗日運動が起き、3・1独立運動以来の規模に拡大しています。
デモだけでなく、独立をめざす民族主義者たちの闘争も活発でした。
3・1独立運動の後には上海に大韓民国臨時政府が組織され、朝鮮半島の外でも独立運動が行なわれました。
しかし、大衆の広範な支持を集められなかったことが致命的でした。内紛が多かったことも組織の拡大につながらず、結局は朝鮮総督府に脅威を与えることはできなかったのです。
創氏改名を強行
朝鮮半島北部ではパルチザン活動が局地的に行なわれていました。その中で特に名を馳せたのが金日成(キム・イルソン)でした。
一方、1937年7月に日本と中国が全面戦争に入り、植民地としての朝鮮半島の重要性が増しました。特に、戦争の激化にともなって軍需に不可欠な鉱物資源の採掘が朝鮮半島の各地で積極的に行なわれたのです。
さらに、朝鮮民衆の皇民化が徹底されました。そこには、きたるべきときの軍事要員として活用しようという日本の意図もありました。
朝鮮総督府は1939年12月に「朝鮮民事令改正」を交付し、1940年8月10日を期限として朝鮮民衆が日本式の名前に改めることを強制しました。いわゆる「創氏改名」です。
朝鮮総督府は全土の官憲を動員して、路上や列車内で人々を尋問して創氏改名の実施状況を調べました。
創氏改名を行なわない人に対しては、子供の入学不可、役所での事務受付拒否、公的機関への採用禁止という厳しい罰則が設けられました。
抵抗運動も起こり、当時の南太郎総督の名をもじって「南太郎」と改名する人たちもいました。朝鮮民衆にとって「姓」は一族の誇りを示す象徴。それを強引に変えさせられるというのは、自尊心を著しく傷つけられることでした。
1941年12月、日本はアメリカと戦争状態に突入しました。戦局の悪化にともなって朝鮮民衆の大動員計画が練られ、多くの人たちが日本国内の炭鉱や軍需工場で強制的に働かされたり、兵士として戦場に駆り出されたりしました。
男性ばかりではありません。女性も女子梃身隊という名で集められました。その中には従軍慰安婦として戦場に送られた女性もいたのです。
日本の敗色が濃くなればなるほど、戦時下で動員された朝鮮民衆の運命は苛酷にならざるをえませんでした。そんな日々にも、やがて終わりが来ました。
1945年8月15日、日本の敗戦は朝鮮半島の解放を意味していました。日本の植民地支配が終焉し、朝鮮民衆は35年ぶりに自尊心を取り戻したのです。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)
コラム提供:ロコレ
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