「コラム」日本のコリアをゆく/広島・鞆の浦編1

DSCF0794台地の上の福禅寺
私は30代半ばに大学で歴史を学んだとき、卒論で朝鮮通信使の研究をした。その際、江戸時代の鎖国体制を以前から間違って捉えていたことを察した。

それまでは、長崎で限定的にオランダと貿易を行なっていただけで、徳川幕府はどの国とも外交関係を結んでいないと思っていた。

しかし、徳川幕府の将軍が変わったときには、朝鮮半島から慶賀の祝いのために使節団が度々来日していた。

つまり、鎖国というのは間違いであり、日本は朝鮮半島と善隣友好関係を築き、文化交流も盛んに行なっていた。

そんな時代の史跡を訪ねたいと思ったとき、大いに興味を持ったのが、朝鮮通信使にゆかりがある広島県の鞆(とも)の浦だった。

訪ねたときは、福山駅からタクシーで鞆の浦に向かった。

約20分で岬の先端に着いた。

そこには「瀬戸内海国立公園 鞆の浦」という看板が立っていた。海は穏やかで、陽光を浴びた水面がキラキラと輝いていた。

海とは反対の方向を見ると、目の前の台地の上に甍(いらか)が大きな寺が見えていた。それが福禅寺だった。

江戸時代に朝鮮通信使がよく立ち寄った福禅寺

江戸時代に朝鮮通信使がよく立ち寄った福禅寺

江戸時代の朝鮮通信使
私はゆっくりと狭い坂道をのぼって福禅寺に向かった。この寺と朝鮮通信使の関係に思いを馳せながら……。

朝鮮半島に未曾有の被害をもたらした「文禄・慶長の役」は、1598年に秀吉の死をもって終結するが、関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、朝鮮王朝との関係改善を願った。

国内を安定させるためには、隣国と良好な関係を早く築くことが必須と考えていたし、外交使節を迎え入れることで徳川幕府の正統性を示そうとしたのである。

率先して和議の仲介役となったのが対馬藩で、粘り強く国交再開を朝鮮王朝に働きかけた。この藩は朝鮮半島との交易がなければ存続できなかったからである。

当初は朝鮮王朝の憎悪も激しかったが、誠実さをもって捕虜の送還に尽力したことが次第に評価されるようになった。また、家康の軍勢は朝鮮出兵の際に出陣地だった九州の名護屋までは行ったが、そこから海を渡ることはなかった。秀吉からの出陣命令が出なかったことが、後の和平のときに追い風となった。

朝鮮王朝も日本との和議に異存はなかった。国土を復興させるためには、日本と平和的な関係を築くほうが得策だったのだ。

1607年に第1回目の使節が朝鮮半島から来日し、両国の間で再び交流が始まった。最初の3回は戦後処理を主な目的としており、正式には「回答兼刷還使」と呼ばれた。徳川幕府からの来日要請に対する回礼という意味で「回答」を使っており、同時に、日本に連行された捕虜を連れて帰る「刷還使」を兼任していたのである。正式に朝鮮通信使という名称になるのは第4回目からである。

その第4回目は泰平祝賀、第5回目は将軍家の嫡男誕生祝賀が来日目的だったが、第6回目以降はすべて、将軍の襲職祝賀を名目として来日している。つまり、朝鮮通信使が定例化されてからは、「御代替祝儀の信使」であったわけだ。

 

朝鮮通信使を饗応した各藩

朝鮮通信使の構成は、当時としては破格だった。

正使、副使、従事官を高位とする一行は400人から500人の規模を誇り、外交使節の他に儒者、作家、書家、画家、医者なども同行して文化交流に力を注いだ。

また、国書の交換が行なわれるのが通例でり、徳川幕府は国賓として最高の格式で朝鮮通信使を迎えた。

来日の際の経路を見てみよう。

漢陽(ハニャン/現在のソウル)を出発して陸路で釜山(プサン)に至った一行は、船で対馬、壱岐、瀬戸内海を経由して大坂に上陸する。そこでしばらく逗留したあと、淀川をさかのぼって京都に出て、陸路で江戸に向かった。復路もほぼ同じ経路をたどるが、この往復にはおよそ8カ月ほどの日数がかかった。

しかも、日本国内での接待と警護はすべて沿海・沿道の各藩が担当し、その饗応のために莫大な経費を必要とした。各藩は相当頭を悩ませたが、面目を保つために相応の出費もやむをえなかった。

たとえば、鞆の浦を抱える福山藩の場合を見てみよう。

当時の資料によると、朝鮮通信使が来る度に福山藩では鞆の浦で応対するために1000人規模の人員を動員したという。さらに、特に苦労したのが料理に使う食材の調達であり、一度に鶏400羽や雉80羽を用意しなければならず、藩内の各村に布告を出して懸命に集めた。

また、大量の魚も必要だったので、鞆の浦の漁師が一致団結して漁に出た。応対する側の苦労がしのばれる。

それでも、華やかで壮麗な使節団を迎える地元の人たちは大喜びだった。朝鮮通信使は各地で熱狂的に迎えられ、宿舎を訪ねて朝鮮王朝の知識人たちと談論風発をする人が非常に多かった。

たとえ言葉は通じなくても、筆談によって意思の疎通をはかることができた。そういう意味でも、両国の相互理解に果たした役割は非常に大きかったといえる。

 

(次回に続く)

(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)
コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

2016.04.21