【時代劇が面白い!】英祖と思悼世子の物語5「不可解な生母の意図」

米びつに閉じ込められた思悼世子(サドセジャ)の生死はどのようになっていたのだろうか。食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままの思悼世子は、まだ生きていたのかどうか。それは誰にもわからないことだった。



死後に名誉を回復
思悼世子が米びつの中で息絶えていることがわかったのは1762年閏5月21日のことで、閉じ込められて8日目だった。
少しでも想像力を働かせれば、思悼世子がどんなに苦しんだかがすぐにわかる。元来が怖がりの彼は手足を伸ばせないような狭い空間に押し込められて、恐怖の中で何日も苦悶した。
しかも、世子ともあろう人が、いつ亡くなったのかも確認できないのである。あまりにむごい死に方だった。
思悼世子が亡くなったという知らせを受けた英祖(ヨンジョ)は、息子を米びつに閉じ込めた張本人でありながら、意外にも深い哀悼の意を表した。
「どうして30年近い父と子の恩義を感じないでいられるだろうか。世孫(後の正祖のこと)の心の内を考え、大臣たちの意思を推し量れば、その名誉を回復して諡〔おくりな/死後に贈る尊称〕は思悼世子としたい」
息子の死が確認された当日に英祖は冷静だった。

しかも、罪人扱いしていたのに、死が確認されるとすぐに“思悼世子”という諡を贈っている。
これは“世子を思い、その死を悼〔いた〕む”という意味だが、ここまでりっぱな諡を用意しているくらいなら、なぜ息子の命を救わなかったのか。
英祖にしてみれば、朝鮮王朝の王統を守るためにやむをえなかったという気持ちが強かったかもしれない。
朝鮮王朝の歴代王の中では10代王・燕山君(ヨンサングン)と15代王・光海君(クァンヘグン)という2人の王がクーデターによって追放されているが、思悼世子もそこに名を連ねないようにするために、あえて英祖は泣いて思悼世子を死に至らしめたという見方もできる。
あまりに手回しよく“思悼世子”という諡を用意しているところに、英祖のただならぬ決意を感じ取ってしまう。
思悼世子は“悲劇の王子”として名を残している。
一方、我が子を告発して“米びつ餓死事件”の一端を担った映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏はその後どうなったのだろうか。

彼女は思悼世子の死から2年後の1764年7月に他界している。そのときの英祖の悲しみ方は尋常ではなかった。
しかも、英祖は映嬪・李氏の葬儀に際して、「側室の中でも第一等の礼にのっとって行なえ」と命じている。まさに特別待遇だった。
「朝鮮王朝実録」でも映嬪・李氏については「側室として40余年間務め、慎み深く沈黙を守り、不幸なことにも適切に対処し、功労が多かった」と記している。
そんな女性がなぜ息子の不利になることを告発したのだろうか。今となっては謎に包まれている。
結果的に、思悼世子は非業の最期を遂げたが、彼の息子が英祖の後を継いで名君として称賛された。それが22代王・正祖(チョンジョ)である。ドラマ「イ・サン」の主人公になった王だ。
正祖は即位後ただちに父親を陥れた者たちを厳しく処罰している。思悼世子の復讐は息子によって果たされたのである。
(終わり)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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