朝鮮王朝で国王の正式な後継者のことを世子(セジャ)と言うが、国王の座を約束されていながら即位できなかった5人を取り上げてみよう。それは、李芳碵(イ・バンソク)、懿敬(ウィギョン)世子、昭顕(ソヒョン)世子、思悼(サド)世子、孝明(ヒョミョン)世子である。
生を奪われた5人
◆李芳碵(イ・バンソク)
〔1382~1398年〕
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)の八男。幼いときから聡明で、1392年にわずか10歳で世子(セジャ)に指名された。しかし、この決定には無理があった。野望を持つ兄があまりに多かったからだ。1398年に「王子の乱」が起きて異母兄の芳遠(バンウォン/後の3代王・太宗〔テジョン〕)に殺されてしまった。
◆懿敬(ウィギョン)世子
〔1438~1457年〕
7代王・世祖(セジョ)の長男で、世祖が甥の端宗(タンジョン)から王位を奪って即位したあとに17歳で世子となった。学問を好み優秀な若者であったが、身体が弱く、19歳で早世した。重病になったとき、21人の僧侶が必死に回復のための祈祷を行なったが、死を避けられなかった。後に、懿敬世子の息子が即位して、9代王の成宗(ソンジョン)になっている。
◆昭顕(ソヒョン)世子
〔1612~1645年〕
16代王・仁祖(インジョ)の長男。1637年に人質として清に連行された。8年後、ようやく人質から解放されて帰国したが、外国にかぶれたことを理由に仁祖から疎(うと)まれ、わずか2か月後に急死。葬儀も仁祖によって異様なほど冷遇された。後には、仁祖と側室による毒殺説も流布している。
◆思悼(サド)世子
〔1735~1762年〕
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子。幼い頃から聡明で後継者としての期待が高かった。しかし、精神的な重圧に耐えきれず、素行が乱れた。英祖の逆鱗(げきりん)に触れて自決を命じられた。従わないでいると、米びつに閉じ込められて、8日目に餓死した状態で発見された。息子が名君として名高い22代王・正祖(チョンジョ)である。
◆孝明(ヒョミョン)世子
〔1809~1830年〕
23代王・純祖(スンジョ)の長男。1827年、18歳で父の政治を代行するようになった。人事面や法制面で優れた統治能力を見せ、名君になる素養を感じさせた。しかし、21歳で早世。その死を誰もが惜しんだ。パク・ボゴムが主演した大ヒット時代劇『雲が描いた月明り』の主人公イ・ヨンのモデルとなっている。
文・写真=「ロコレ」編集部
コラム提供:ロコレ