光海君(クァンヘグン)を支持する政治的な派閥が大北(テブク)派です。大北派は光海君が王であり続けるかぎり大出世を果たせるので、自分たちの地位を守るために暗躍します。その中心で動いていたのが金介屎(キム・ゲシ)という女官です。
非道な行ない
1609年、大北派は光海君への批判を繰り返していた臨海君(イメグン)を殺します。さらに1613年、永昌(ヨンチャン)大君が仁穆(インモク)王后の父親と図って光海君の王位を奪おうとしたという容疑を作り出します。その挙げ句、大北派は仁穆王后の父親を死罪にして、母親を奴婢(ぬひ)にしてしまいます。
そして、永昌大君を江華島(カンファド)に流して、最後にはオンドル(床暖房)を熱して永昌大君を蒸し殺します。永昌大君はまだ8歳という幼い年齢で、母親の名前を絶叫しながら命を奪われました。このとき、仁穆王后は西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)という離宮に幽閉されていました。
仁穆王后は、形の上では光海君の母親になります。大妃(テビ)という朝廷の最長老なのです。
朝鮮王朝は儒教を国の教えにしていたので、長幼の序を厳格に守り、親孝行こそが最高の徳目でした。王といえども、大妃に対しては大変な尊敬を払わなければなりませんでした。
しかし、大北派は仁穆王后の大妃の資格も剥奪し、西宮に長く幽閉しました。こうした非道な行ないが後に糾弾されます。
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最悪の暴君?
1623年にクーデターが起こり、光海君は王宮から追放されてしまいます。
クーデターの首謀者は綾陽君(ヌンヤングン)。彼は16代王・仁祖(インジョ)として即位します。
仁祖は、宣祖の五男である定遠君(チョンウォングン)の息子で、弟が綾昌君(ヌンチャングン)でした。その綾昌君が、光海君の王位を脅かそうとした罪に問われて死罪になっており、弟を殺されたという個人的な恨みがありました。
臨海君や永昌大君にしても、骨肉の争いの末に殺されており、光海君と大北派に恨みを持っている人は多かったのです。そうした恨みをうまく吸い上げて仁祖はクーデターを成功させました。以後、王宮を追放された光海君は、仁祖の意図によって「最悪の暴君」に仕立てあげられました。
暴君といえば、10代王・燕山君(ヨンサングン)があまりに悪名が高いのですが、光海君も同様だというわけです。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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