11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后。彼女は自分が産んだ慶源大君(キョンウォンデグン)を王にするために、手段を選ばぬ悪行を重ねていた。特に、中宗の二番目の正室が産んだ12代王・仁宗(インジョン)の暗殺を狙った。
文定王后を訪ねた仁宗
中宗は1544年に56歳で世を去った。中宗の後を継いで仁宗が即位した。
1545年6月17日、側近が仁宗にこう伝えてきた。
「大妃様(文定王后)から、明日昼の祭祀が終わったら挨拶に来てほしいというお言葉がございました。殿下の体調が良くないようでしたら、陽気がとても暑いので、ご無理をなさると重病になるかもしれません。お控えになさったほうがよろしいのではないでしょうか」
仁宗は返答した。
「体調は大丈夫だ。たとえ暑くても、祭祀をやめるわけにはいかない。息子として、せねばならないことが長くできなかったので、随分と悲しい思いをしていた」
翌日、仁宗は祭祀を済ませて文定王后を訪ねた。その際に餅を勧められた。仁宗はそれを食べながら、文定王后としばし世間話をした。
それからしばらくして、仁宗は下痢に悩まされるようになった。
6月25日に仁宗の病状が悪化した。それなのに、文定王后が高官たちに声をかけてきた。
「殿下の病状がとても重いようです。女官たちの泣き叫ぶ声が外まで聞こえます」
言い方がなんとも他人行儀だった。仮にも母である。王の病状が深刻なだけに、取り乱しても不思議はないのだが……。
それなのに、文定王后はむしろこんな意向を示した。
「私が宮殿を出て懿恵(ウィギョン)王女の家に留まりながら、殿下の見舞いにも行きましょう」
それは突拍子もない言葉だった。
懿恵王女は文定王后の娘だが、すでに他家に嫁いでいる。しかも、大妃(王の母)が王宮の外に出るというのは慣例にないことだった。
なぜ、文定王后は騒動を起こそうとしたのか。
目的は2つあると思われる。
まずは、高官たちを大いに混乱させることだ。現に、文定王后の外出の件をめぐっては、高官たちが何度も集まって対応を協議している。仁宗の病状が危険なときに、高官たちは文定王后によってさらに混乱させられたのだ。
もう1つは、仁宗の危篤を王宮の外に広く知らせること。実際、王女の屋敷は人の出入りが多い場所にあった。
そこに文定王后が行けば、人々がいろいろなことを噂して、結果的に仁宗の病状がもれる可能性が高かった。
そうなれば、仁宗の王権が揺らぐことにつながりかねない。それが文定王后の狙いでもあった。
(ページ2に続く)
悪の手先だった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)/朝鮮王朝人物実録7