新羅の立役者
善徳女王は善政を行ない、生活が苦しい人々をよく慰問した。庶民の税金を1年間免除するという政策を実施したこともあった。
民衆から慕われたのも当然だった。
ただし、周辺の国家は女であるという理由だけで善徳女王をあなどった。屈辱を受けたのは643年のことだった。高句麗や百済との戦いが激しくなる中で、善徳女王は使者を唐に派遣して援軍を願った。
しかし、唐の態度は冷たかった。
「新羅は女が王になっているから隣国から軽んじられているのだ。我が国の王族を送るから新羅の王にしたらどうか。そうすれば援軍も派遣できるのだが……」
いわば、善徳女王に対する退位勧告だった。彼女にしても、この勧告をとうてい受け入れるわけにはいかなかった。
「他の国に頼るより、自分の国の人材を生かさなければ……」
そう考えた善徳女王は、若手を軍の幹部に抜擢した。彼らはその期待によく応え、新羅を強国に導いていった。
善徳女王は647年、自ら予言した日に亡くなった。最後まで彼女の霊感は衰えていなかった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)