「善徳(ソンドク)」は死後に付けられた諡(おくりな)である。新羅(シルラ)の善徳女王(?~647年)の本来の名は徳曼(トンマン)と言う。生年は定かでない。新羅26代王の真平(チンピョン)王の長女として生まれた。
632年に即位
善徳女王は小さいころから聡明だった。
それを物語る逸話がある。彼女がまだ女王になる前、中国から牡丹の花の絵と種子が送られてきた。
花の絵をずっと見ていた徳曼は、「牡丹は美しく咲くかもしれないけど、香りがしないのでは……」と言った。
父親の真平王が「なぜ香りがないとわかるのかな」と聞くと、徳曼はきっぱりと言い切った。
「牡丹の絵には蝶がいませんよ。香りがあれば、蝶や蜂が寄ってくるはずです。この花を見るかぎり、蝶や蜂がいませんから、香りがないとわかるのです」
実際に牡丹の種子を蒔いてみると、花が咲いても香りがなかった。徳曼の指摘の鋭さに、みんなが感心した。
真平王が亡くなり、632年に徳曼は善徳女王として即位した。
彼女が特に力を入れたのが中国大陸を支配していた唐と良好な関係を結ぶことだった。そのために善徳女王はしきりに使者を唐に派遣した。
当時、新羅は朝鮮半島北部を占める高句麗(コグリョ)と西南部を占める百済(ペクチェ)と激しく領土争いを繰り広げていた。
善徳女王としては唐の支援を得ることがとても大事だと考え、あえて身を低くして唐のご機嫌をうかがったのである。
もちろん、戦時体制だったので、敵からの攻撃に備える準備も怠らなかった。
638年には、高句麗が新羅の北側の領土を攻めてきて、民衆たちが驚いて山のなかに逃げ込むという出来事があった。善徳女王は、民衆に落ちつくように呼びかけ、すぐに大軍を北方に派遣して高句麗の兵と戦い、これに勝利した。
彼女は、人が気づかないことを察する霊感が強かった。
それは、ある年の夏のことだった。王宮の西に玉門池という池があり、そこに大量のヒキガエルが集まっていた。
善徳女王はその様子を見てすぐに驚いた。
「ヒキガエルが怒ったような目をしている。きっと、兵士の相を表しているのよ」
ここまで言ったあと、彼女はとっさに気づいた。それは、新羅の領土の西南に玉門谷という谷があることだった。
「ヒキガエルの怒った目でわかったわ。玉門谷にきっと敵がいるはずよ」
善徳女王の命令を受けて新羅兵が駆けつけてみると、なんと百済の兵が谷に潜んでいた。その数は500人。彼らは油断していた。新羅軍は機先を制して百済軍を急襲して全滅させた。善徳女王の恐ろしいほどの霊感が新羅の窮地を救ったのだ。
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