【時代劇が面白い】王妃たちが国母であった時代「第3回」

 

悪魔のような継母
燕山君に代わって王位についたのは11代王・中宗(チュンジョン)だった。彼は妻の端敬(タンギョン)王后を心から愛していたが、彼女の親族に燕山君の側近が多かったことから廃妃が決定。中宗としても断腸の思いだったが、クーデターを成功させた有力者たちの意見を無視することはできなかった。
1507年、中宗は章敬(チャンギョン)王后を二番目の王妃として迎えたが、彼女は1515年に中宗の長男を産んですぐに亡くなってしまった。王が独身のままでいられないので、中宗は1517年に文定(ムンジョン)王后を正妻にした。彼女は気が強い女性で、側室に対しても厳しく接した。


1534年、文定王后は王妃になって17年目にようやく息子を産んだ。それが慶源(キョンウォン)大君だった。すでに世子には中宗の長男が決まっていたが、文定王后はあきらめなかった。なんと、彼女は世子の寝殿に火をつけて焼き殺そうとはかった。それは未遂に終わったが、文定王后は虎視眈々(こしたんたん)と機会をうかがった。

中宗が1544年に世を去り、世子が12代王・仁宗(インジョン)として即位した。しかし、彼は在位わずか9カ月で病に倒れた。一説によると、文定王后が持参した毒まんじゅうを食べたことが原因だという。仁宗が亡くなり、文定王后の狙いどおりに慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)となった。


明宗はわずか11歳だったので、文定王后が垂簾聴政を行なった。彼女は実権を握って私腹を肥やし、恐怖政治で宮中を取り仕切った。文定王后の弟の妻であった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン〕も悪行によって多くの人から恨みを買った。
明宗は母の暴政によって心労が重なり病気がちになった。結局、文定王后は1565年に64歳で世を去り、取り巻きだった鄭蘭貞も自決せざるをえなかった。そして、明宗も母の死から2年後に33歳で亡くなった。

 

王妃たちが国母であった時代「第1回」

王妃たちが国母であった時代「第2回」

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コラム提供:チャレソ
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2021.12.07