JR新大久保駅の構内に李秀賢さんと関根史郎さんの顕彰プレートが設置されている
象徴はチャレンジ
同じホームページの中で、1998年7月に行った夏休み旅行のことを書いている。この旅行はマウンテンバイクに乗って韓国を一周しようとしたもの。友人と一緒に4人で出発している。
「自分の国をまわってみると、外国に負けない魅力的な場所もあるし、苦労して回るだけの価値があると思う。そのうえで、外国に行けば、韓国人としての自信も芽生えるだろう。とにかく、何ごともぶつかってみなければならないと思う。それでも駄目なときがあるければ、やってみようという気持ちをもつことがとにかく重要じゃないだろうか。最善を尽くせば、結果はそれほど重要ではない。最善と結果の差は、自分に不足している能力だけだ。しかも、自分にどれだけ能力が不足しているかがわかれば、再びチャレンジすればいいだけの話。まだ僕は若いんだから。僕らの象徴はチャレンジだ」
李秀賢さんは強調していた「チャレンジ」の具体策として日本にやってきた。1999年8月27日に、赤門会日本語学校に入学願書を出したが、就学理由という欄にこう書いている。
「私は国際貿易に関心を持っていて、高麗大学貿易学科に入学しました。そこで、特別な考えもなく、ほとんどの学生と同様に英語圏の国同士の貿易関係について学びました。日本については、多くの人が知っている程度のことはわかっていますが、若干の先入観もあります。それと、『地域研究』という専攻科目を受けながら日本について研究し、発表とセミナーをする機会がありました。その中で、徐々に日本の経済・文化・社会などすべての面に興味を感じ、特にわが国と日本との交易関係に強い関心を持ちました」
李秀賢さんが書いた就学理由の続きである
「学校で第二外国語として1年半くらい日本語を勉強してみたら、もっと日本語を詳しく勉強したいと思いました。そして、直接日本を体験してみたくなり、日本語の研修を決意しました。日本語学校の研修を通して、日本で見て聞いて感じたことを土台にして、韓国または日本の貿易会社に入社し、両国の交易に関する確実な第一人者になりたいと思います。
李秀賢さんは留学後にもずっと日本に住みたいという気持ちを持っていた。
彼にとっての日本とは?
スポーツクラブで使ったタオルをていねいに折り畳んでいる日本人を見て、「なんてマメなんだろう」と思い、道を尋ねたときに親切に対応してくれたことにも感心した。
ただし、外国人ということで差別を受けたこともあった。しかし、李秀賢さんは落胆しなかった。
「日本人にも韓国人にもいい人がいれば、そうでない人がいる。大事なのは一人ひとりなんだ」
そう感じて、なにごとも前向きにとらえた。しかし、まさか自分が異国で26歳という若さで生を終えるとは、夢にも思わなかったことだろう。
(後編に続く)
コラム提供:ヨブル