「コラム」日本と韓国の物語「第8回/李秀賢(中編)」

李秀賢さんはマウンテンバイクが大好きだった

 

2001年1月26日にJR新大久保駅で、線路に落ちた人を助けようとして電車にひかれて亡くなった李秀賢(イ・スヒョン)さん。私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)が、釜山(プサン)にある李秀賢さんの実家を訪ねたのは、2001年2月7日だった。事故から12日が経っていた。

 

息子を信じた母親
母親の辛閠賛(シン・ユンチャン)さんは、最愛の息子である李秀賢さんについてこう語った。
「大学生の頃から息子は将来のことをいろいろと考えていました。ただ、息子は普通のサラリーマンのように、定時に出勤して決まった仕事をやっていくタイプではなかった。何か大きな夢を持っていたのです。大学4学年のときに日本に留学したいと言いだしても、不思議ではなかったですね。私は一時期日本語を勉強したことがあるんです。当時の韓国では日本に対して強い反感がありましたけど、私は日本に悪い感情を持っていなかった。なんといっても、日本はアジアの中でもいちはやく発展した国ですし、韓国が学ぶことが多い国だと思っていました。そういうこともあって、私は日本語を勉強して将来に役立てようと思っていたんです。結局、日本語の学習を続けられませんでしたが、教科書をずっと持っていて、秀賢もその本を多分見たと思います。それで日本語に興味を持ったのかもしれません」

李秀賢さんは名門私学の高麗(コリョ)大学で貿易を学び、将来はスポーツ・マーケティングに進みたいと考えていた。
「秀賢は必死に自分のやりたい分野について説明してくれました。秀賢はとにかく『日本で本当に一生懸命にやります』と言っていました。あの子には、どんな仕事でもやり抜く強い意思がありました。息子を信じよう、と私も夫もそう思いました。秀賢は日本で何を学んで何を身につけてくるか。それを大いに期待して私たちは秀賢を日本に送り出したのですが……」
李秀賢さんの人生は、わずか26年半だった。あまりにも短いが、その中で彼はどう生きたのか。


1999年に自分のホームページで自己紹介をしている。
「僕は、李秀賢と言います。1974年7月13日に慶尚(キョンサン)南道の蔚山(ウルサン)で生まれました。家族は父母と妹が1人います。
趣味はマウンテンバイク、ギター、スキンダイビング、水泳、バスケットボール、テニスです。あと好きなのは、酒を飲むことや、運動して汗を流すこと、コンピュータ、何でも整理することなどです。

僕の宝物は家族、恋人、友人、ギブソンのギター、ノートパソコンです。
僕の別名はタフガイ。将来の夢は大統領になることでしたけど、最近はちょっと……。それより、最高の人生を楽しみながら生きていきたいですね。この“楽しく”というのは、いつも遊んでいたいという意味ではなく、仕事にしても勉強にしてもできるだけ自分がやりたいようにやるということ……いつか振り返ったときに、絶対に後悔したくないということなんです。
生きていれば駄目なときもありますけど、それしきのことで後ろに退きたくはないですからね。そんな苦労や逆境も人生の一部分だし、いつでも受けて立つ準備ができていますし、突き進む勇気もありますよ」
(ページ2に続く)

日本と韓国の物語「第1回/浅川伯教・巧(前編)」

日本と韓国の物語「第2回/浅川伯教・巧(後編)」

日本と韓国の物語「第3回/雨森芳洲(前編)」

日本と韓国の物語「第5回 余大男(前編)」

日本と韓国の物語「第7回/李秀賢(前編)」

2021.12.06