三田渡の屈辱
こうなると清も怒り心頭だ。「仁祖の息子を人質として清に送り、仁祖自身が謝罪すること」を要求してきた。こうした傲慢な呼びかけに対して、仁祖は徹底的に無視を貫いた。
同年12月、清は12万の大軍で朝鮮王朝に総攻撃を仕掛けてきた。こんなにも早く攻められると思わなかった仁祖は極度の混乱に陥り、満足な指揮を取ることができなかった。後金の激しい攻撃の前に、次々と破られる防衛線。仁祖に残された手段は漢陽の郊外にある南漢山城(ナマンサンソン)に籠もり、守りを固めることだけだった。。
城の中では、降伏論と徹底抗戦論が不毛に続き、なんの結論がないままに40数日が過ぎた。状況の打開が困難だと悟った仁祖は、清への完全降伏を決心した。しかし、清が提案する降伏条件はあまりにも屈辱的だった。
それは三田渡(サムジョンド/漢江〔ハンガン〕のほとり)に設けられた祭壇の上で、仁祖が清の王に直接ひざまずいて頭を下げるというものだった。
屈辱的な謝罪、莫大な賠償金……それだけではなかった。
仁祖の息子たちは人質として清へ連れていかれた。もはや仁祖の自尊心は完全に打ち砕かれた。
「なぜ、こんな屈辱的な目にあうのか」
清にぶざまに謝罪した仁祖だが、内面では清への憎しみを強めていった。
文=「チャレソ」編集部
コラム提供:チャレソ