「コラム」日本と韓国の物語「第3回/雨森芳洲(前編)」

雨森芳洲の記念館の入口

朝鮮通信使の接待役
儒学を学んだ雨森芳洲が対馬藩に仕えたのは1689年で21歳のときだった。
農地に恵まれない対馬藩は、地理的に近い朝鮮半島との交易が命綱だった。それだけに、朝鮮王朝と良好な関係を築くことに腐心してきたが、その実績を買われて対馬藩は徳川幕府と朝鮮王朝の間に入って外交の実務を担っていた。
そんな対馬藩で雨森芳洲は釜山(プサン)に派遣されて朝鮮語も習得。朝鮮王朝の事情をもっとも詳しく知る逸材になった。
それゆえに、朝鮮通信使が来日した際に、使節一行が日本で一番頼ったのが雨森芳洲だった。
1719年に来日した朝鮮通信使は、江戸時代の全12回の中で9回目の使節である。来日の目的は徳川吉宗の襲職祝賀のためで、使節の総人員は475人にのぼった。この中で製述官を務めていたのが申維翰(シン・ユハン)である。
一方、朝鮮通信使の接待で中心的役割を果たしたのが対馬藩の雨森芳洲だった。このとき、彼は51歳である。

申維翰は日本紀行の名著として名高い『海游録』を残しているが、その中で雨森芳洲とのやりとりを詳細に記している。
雨森芳洲と申維翰が初めて会ったのは1719年6月27日だった。対馬に到着した朝鮮通信使の一行を雨森芳洲が出迎えたわけだが、申維翰は以前から雨森芳洲のことを「日本で抜きん出た人物」と聞いていたので、その対面を楽しみにしていた。
(ページ3に続く)

2021.11.19