死期を悟った王
後の定説では、仁宗は文定王后によって毒の入った餅を食べさせられたという。その話は次のように伝えられている。
ある日、文定王后は普段とは違うにこやかな笑みを浮かべて、仁宗に餅を差しだした。
仁宗はいつも冷たい継母が、やっと笑顔を見せてくれたと喜び、何の疑いもないままにその餅を食べ、数日後に体調を崩した。
これを好機と捉えた慶源派は「殿下は死後、慶源様に王位を譲るだろう」という噂を宮中に流した。
1545年6月、仁宗の体調は回復の見込みがないほど悪かった。死期を悟った彼は大臣たちを呼ぶと遺言を残した。
「私の命はもう長くない。だから、私が死んだら慶源を王にせよ。あの子はまだ11歳と幼いが、聡明で立派な王になるだろう。お前たちはどうか新しい王をよく補佐してやってくれ」
仁宗は遺言を残した数日後に他界した。彼の残した言葉は宮中に広まり、そのときから慶源派の独裁政治が始まった。
彼らはまず、仁宗の葬儀を王子の待遇ですませた。そのことについて文定王后は、「殿下は王として1年も過ごせませんでした。ですから、王として葬儀を行なうわけにはいきません」と、周囲を無理やり納得させた。
強引な理屈でありながら、王の母という立場を手にした彼女に、文句を言える者はいなかった。
文=「チャレソ」編集部
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