古代の朝鮮半島で一番の国際人といえば、それはもう張保皐(チャン・ボゴ/?~846年)をおいて他にいない。彼は海を支配して日本や中国と自在に貿易を行ない、国王をしのぐほどの力を手に入れた。そのスケールの大きな活動は、古代史の中でもさん然と輝いている。
唐で将軍になった
張保皐の生年はよくわかっていない。8世紀末から9世紀初めにかけて新羅で生まれたと推定される。
歴史書「三国史記」には「出身地と父祖はわからない」と書かれているが、貧しい船頭の息子だったと伝えられている。幼名は「弓福(クンボク)」だった。
新羅にいてもうだつが上がらないと悟っていた張保皐は、大望を抱いて唐に渡った。唐に行く船で雑役をする仕事を見つけたか、貿易船の倉庫にうまく潜んだのか。いずれにしても、人並み以上に才覚があり、自分を生かす道を知っていた。
唐でも死に物狂いで働き、地方で将軍になるまでに出世した。そんな彼は衝撃的な光景を目にした。なんと、新羅から唐に何人もの奴隷が連れてこられたのだ。当時、朝鮮半島の近海には海賊が多く出没していて、彼らは沿岸を襲って人をさらい、唐で人身売買を行なっていた。
「こんなことを許していていいのか。すぐに新羅に帰ろう」
そう決意した張保皐。新羅に戻ると、唐で出世したことを大きな実績にして、王に謁見する名誉を得た。ときの王は新羅42代王の興徳王(フンドクワン)だった。
張保皐は直訴した。
「我が国の人間が奴隷にされています。これを防ぐために、清海(チョンヘ)鎮を設けて、海賊を取り締まらなければなりません」
清海は今の莞島(ワンド)で、当時は新羅と唐を結ぶ海路の要衝だった。興徳王は大いに賛成し、張保皐は1万人の兵士を託された。これだけの数の兵士を投入しようというのだから、新羅も本気で海賊退治に乗り出した。
張保皐は清海鎮を築き、日夜、海上防衛に尽力した。その甲斐があって、新羅の民が奴隷にされることはなくなった。
この功績によって、張保皐は興徳王から厚い信頼を得た。その威光を利用しながら、張保皐は本格的に海上貿易を始めた。清海鎮を拠点にして、日本と唐との貿易量を飛躍的に増やしたのだ。いつしか「海上の王」と呼ばれるほどになった。
836年、興徳王が後継ぎがいないまま亡くなった。宮廷内では、熾烈な跡目争いが始まった。ともに王族の一員であった金均貞(キム・ギュンジョン)と金悌隆(キム・ジェリュン)が激しく競った。
金均貞と金悌隆は叔父と甥の関係にあった。結局は金均貞が死んで金悌隆が勝ち、43代王の僖康王(ヒガンワン)となった。
負けた側の金均貞の息子だった金祐徴(キム・ウジン)は、連座制によって自分にも大罪が及ぶのを避けて都から逃げた。彼が頼ったのは、兵力も財力もある張保皐だった。張保皐は、落ちのびてきた金祐徴を温かく迎えた。
838年、興徳王の甥であった金明(キム・ミョン)が反乱を起こし、王宮を襲撃した。僖康王は、護衛の者がことごとく命を失い自害せざるをえなかった。代わって金明が即位して44代王の閔哀王(ミンエワン)となった。
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