現在の徳寿宮はかつて慶運宮と呼ばれ、仁穆王后が幽閉されていた。写真は徳寿宮の正殿の中和殿
1623年3月13日の明け方、綾陽君(ヌンヤングン/後の仁祖〔インジョ〕)の統率のもとで兵力を整えたクーデター軍は、内通者の協力を得て王宮内に入り込み、重要な拠点を次々に占拠した。虚をつかれた光海君は脱兎のごとく王宮を抜け出した。クーデターは、無用な戦闘をせずに終わった。光海君も後に捕らえられた。
光海君の処遇問題
綾陽君にはクーデターの正統性を明確に示す必要があった。
燕山君のように大量の殺戮(さつりく)を繰り返した残虐非道の暴君であれば、追放するのに特別な理由は要らないが、光海君の場合は燕山君とは明らかに事情が違っていた。私憤にかられて政変を起こしたという言いがかりを押さえ込むためにも、誰もが納得する大義名分を掲げる必要があった。それが終わらないかぎり、クーデターが成功したとは言えなかった。
そこで、綾陽君はすぐに離宮に幽閉されていた仁穆(インモク)王后のもとに駆けつけた。
ようやく幽閉を解かれた仁穆王后はこう言った。
「私は薄幸の運命を持っているようで、大変な災いを受けました。逆魁(ヨククェ/光海君のこと)が私のことを仇のように思って、私の父母や親族を殺戮(さつりく)し、幼い息子(永昌大君〔ヨンチャンデグン〕)を殺害して私を離宮に幽閉したのです。このからだは長い間隔離されて、どんな消息も耳に入ってこないようにされていましたが、まさか、今日のような日がくるとは、夢にも思いませんでした」
さらに、仁穆王后はこう付け加えた。
「昨晩、夢に先王(宣祖〔ソンジョ〕)が現れて、このようなことが起きると教えてくれました。みなさんは改めて人の道を示してくれたのです。この功労をどのように讃えれば良いのでしょうか」
復讐を遂げた仁穆王后は、身が震えるほどの感激を味わっていた。
その後は王位の継承に関する手続きなどが話し合われたが、仁穆王后が執着したのが光海君の処遇問題だった。
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