「朝鮮王朝で一番美しかった王女」と称されるのが、15世紀に生きた敬恵(キョンヘ)王女である。彼女は波瀾万丈の生涯を送った女性だ。果たして、敬恵王女の人生とは、どういうものだったのだろうか。
6歳で母を失う
敬恵(キョンヘ)王女は、ハングルを創製した名君の4代王・世宗(セジョン)の孫である。
彼女の父親は、世宗の長男であった5代王・文宗(ムンジョン)だ。この父親と顕徳(ヒョンドク)王后の間から敬恵王女は1435年に生まれた。
母親の顕徳王后は、敬恵王女が6歳のときに長男となる6代王・端宗(タンジョン)を産むのだが、あまりに衰弱して出産後数日で亡くなってしまった。幼い敬恵王女にとって、とてもつらい出来事だった。
敬恵王女が15歳のときに世宗が亡くなって文宗が即位したが、父親は病弱で床に伏せることが多かった。
敬恵王女は心配でずっと父のそばにいたかったのだが、王族の女性は10代なかばになると嫁に行くのが慣例であり、敬恵王女にも婚礼の話が持ち上がった。
相手に選ばれたのは、名家出身の鄭悰(チョン・ジョン)である。当時は、結婚した王女は王宮の外に出なければならなかった。文宗は敬恵王女をとてもかわいがっており、娘のために王宮の近くにりっぱな屋敷を用意した。その屋敷で、敬恵王女と鄭悰は新しい夫婦生活をスタートさせた。
1年後の1452年、文宗は38歳で世を去った。覚悟していたとはいえ、敬恵王女の悲しみは大きかった。
王位を継いだのは、敬恵王女の弟でまだ11歳の端宗だった。王が幼い場合、王族の最長老女性が垂簾聴政(摂政のこと。王の後ろに掛けた簾の奥から政治を仕切ったことからこう呼ばれた)を行なうのが朝鮮王朝のしきたりだったが、端宗には母も祖母もすでにいなかった。
これは、端宗にとって非常に不利な状況だった。
もちろん、文宗の付託を受けた忠臣たちが端宗を補佐したのだが、端宗にしてみれば6歳上の姉に対する依存心が強くなった。端宗は心細い気持ちを払拭したくて、何度も姉の屋敷を訪ねるようになった。
それは、敬恵王女にとってもうれしいことだった。母の愛を知らずに育った弟の母代わりとして、敬恵王女は端宗を優しく見守った。
(ページ2に続く)
世宗を最高の名君にした訓民正音(フンミンジョンウム)の創製!