1598年11月、最後に島津軍がかろうじて対馬にたどりつき、豊臣軍は完全に日本に引き揚げてきた。7年近くにわたった戦乱の影響はあまりにも大きかった。朝鮮半島は荒廃し、多くの人命が奪われた。
窮地に陥った対馬
戦乱の中で捕虜として日本に連れていかれた人も相当数にのぼった。そのほとんどが農民だった。日本では長く続いた戦国時代によって農民の数が決定的に不足しており、その穴埋めとして朝鮮半島の農民が奴隷同然に連行されたのである。
捕虜の中には陶工も多く、彼らは主に西国大名の領地で陶磁器の生産に従事させられた。伊万里焼、薩摩焼、萩焼という焼き物の名所は朝鮮半島から連行された陶工たちが築き上げたものだった。
戦乱は終わったが、国土を荒された朝鮮王朝の恨みは甚だしかった。まさに「怒髪天をつく」という恨み方である。
餓死者が続出しかねない窮地に陥ったのが対馬だった。農地がないこの島は、朝鮮半島との貿易が命綱であった。
「戦は終わった。和平を急がねばならない」
対馬は秀吉の命令ではからずも戦争に加わったが、今度は関係修復をなにがなんでも進めなければならない立場だった。
対馬の使節は朝鮮王朝から何度も門前払いにされたが、それでも諦めず、頭を低くして朝鮮王朝に願いを出し続けた。
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