浅川兄弟の弟の巧(たくみ)は、1891年(明治24年)に生まれた。兄の伯教(のりたか)より7歳下である。山梨県立農林学校を卒業し、秋田県の営林署に勤めて植林の仕事に従事した。彼はいつも「山野、木、草、水、虫を友としていたい」と語っており、自然を大切にする気持ちを終生持ち続けた。
禿山の改善に尽力
1914年、巧は23歳のときに兄を頼って朝鮮半島に渡ることを決意する。兄弟仲がとても良かったので、兄から朝鮮半島の暮らしを聞いて大いに興味をかきたてられた。同時に、「大陸」という悠久の大地へのあこがれもあった。
日本の植民地統治の総本山ともいうべき朝鮮総督府。その農商工務部山林課で巧は働くようになった。以後、林業技術者として手腕を発揮する。
彼は、当時の技術で非常に難しいとされていたチョウセンカラマツとチョウセンマツの養苗を成功させている。
巧の夢は禿山が多かった朝鮮半島の大地を青くすることだった。彼が開発した技術は、禿山の改善に大いに役立った。
同時に、巧は朝鮮の民衆が愛用する工芸品の収集・研究にも力を注いだ。その中でも特に膳に興味を持った。
多才な資質が開花
1929年、38歳のときに巧は『朝鮮の膳』という著書も発行している。この本では、日常生活に欠かせない膳を工芸の象徴と捉え、朝鮮半島に伝わる膳の形式美を愛情深く論じている。
林業技術者と工芸品研究家。まったく相反する分野のように思えても、そこには巧なりの共通点があった。彼は「朝鮮の膳の温もりは雑木を生かしているからだ」と論じている。巧が朝鮮の工芸に深い理解を示したのは、彼が自然を愛する心を強く持っていたからに他ならない。
そうした生活の中で、巧の多才な資質は、朝鮮の地で一気に開花した。
現地の水は巧によほど合っていたのだろう。普段の彼は、朝鮮の服を着て、朝鮮語を話し、朝鮮の人々と活発に交流した。
当時、日本人による朝鮮蔑視は甚だしいものがあったが、巧は時代に流されず人間の尊厳に心を注げる人物だった。
惜しむらくは、1931年に40歳の若さで亡くなったことだ。死因は急性肺炎だった。墓所はソウル郊外に作られ、彼を慕う林業関係者たちによって守られた。
兄弟を引き寄せた力
浅川兄弟が育った高根町の風景が目の前に広がっている。周囲を囲む山の稜線がとても美しい。
今でこそ、そこかしこに稲穂が見えているが、兄弟が育った19世紀の末頃には、どれほど農作物が収穫できたのであろうか。標高700メートルの高地だけに、思うように作物が育たなかったのではないか。
そんな中で、兄弟は大地の懐に抱かれて成長した。まさに、彼らは山河に育てられたのである。
その兄弟の故郷である高根町は、かつて北巨摩郡に属していた。「巨摩(こま)」という地名に彼らは何を思ったか。
この「巨摩」という漢字は「高麗(こま)」が転じたものである。日本の古代で「高麗」は、朝鮮半島の強国だった高句麗を指している。
この国は新羅・唐の連合軍によって668年に滅ぼされたが、その後に多くの人々が日本に渡来している。山梨県の「巨摩」という地名は、そこに高句麗の人々が数多く住んでいたことを暗示しているのだ。
浅川兄弟を朝鮮半島に誘(いざな)ったのが、その地名が持つ見えない引力であったかもしれない。
今、高根町は周辺のいくつかの町と合併して北杜(ほくと)市となった。市制となった以上、住所から郡名は消える。しかし、浅川兄弟が北巨摩郡の生まれであったという過去は消えない。彼らは、高句麗と日本をつなぐ細い糸をたぐり寄せるために朝鮮半島に渡ったのかもしれない。
そう空想すると、人間が自分の力では抗えない何かが胸に迫ってくる。
朝鮮の美術品の価値を高めたことでは柳宗悦が有名だが、兄弟で揃って朝鮮半島に大きな功績を残したという点で、伯教と巧の存在感も際立っている。
さらに、故郷にりっぱな資料館ができ、浅川兄弟にとってこれほど名誉なことはないだろう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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