6月29日(水)に康熙奉(カン・ヒボン)氏の講演会が行なわれます。それに先駆けて、康熙奉氏が過去に行なった講演会をまとめた著書『康熙奉講演録』より、選りすぐりの記事をご紹介していきます。
侍医の診察を拒絶
正祖は、庶民の生活向上や文化の活性化など多くの政治的業績を残しました。人材を登用して賢人政治を行なったという意味で、4代王・世宗(セジョン)と並んで称賛される名君でした。しかし、もともとは健康に不安を抱えていた王でもありました。
原因の一つはストレスです。彼は小さい頃から老論派に狙われ、命の危険にさらされていました。そのために、いつでも逃げ出せるように服を着たまま寝ていたと言われています。精神的な重圧が相当だったことでしょう。
1776年に即位しても危機は去っていません。即位2年目の1777年には、王宮にしていた慶熙宮に暗殺団が侵入するという事件も起きています。ストレスがたまるはずです。
その解消に正祖が手を出していたのが酒とたばこでした。反対に、食事をろくにとりません。朝鮮王朝の27人の王の中で、正祖が一番の小食だったと言われていました。これでは栄養を十分にとることはできません。
1800年に正祖は48歳になっていましたが、見た目にはもっと老けて見えたことでしょう。ストレス、酒、たばこが身体をむしばんでいました。
ただし、深刻な病状を抱えていたわけではありません。側近たちも、正祖が王としてまだまだ長く国政を担っていくものと期待していました。それなのに、1800年6月になると、正祖は急に衰弱して高熱と腫れ物で苦しむようになりました。
当然のことながら、侍医たちがあわてて診察しようとしましたが、ここで正祖は不可解な行動に出ます。侍医たちがいくら願い出ても診察をさせなかったのです。
「腫れ物の患部をお見せくださいませ」
何度も侍医たちはそう言いましたが、正祖は拒絶しました。そればかりか、薬を作る現場まで自ら視察しているのです。さらに、薬を飲むときも、どんな薬材をどれくらい入れているのかを細かく聞いてきました。彼は薬材に詳しいからいろいろと質問できるのですが、侍医たちをまったく信用していないことは明らかでした。
あげくには、地方にいる著名な医師をわざわざ呼んで診察させたりしています。毒殺されることを極端に恐れていたとしか言いようがありません。
結局、正祖の症状は徐々に悪化していきました。
6月21日になると、正祖は苦しそうにしながらこう言いました。
「痛みがあって気分が悪い。熱があるのに寒けもする。意識もボンヤリしていて、夢を見ているのか、あるいは目覚めているのか、はっきりしない」
こんな状態なのに、それでも正祖は侍医の診察を許しません。
高官の李時秀(イ・ジス)が申し出ました。
「腫れ物の状態を診察すれば治療方法について話し合えるのですが……。医官たちも診察ができないと申しております。いかがでしょうか。診察をお受けになるのがよろしいかと存じます」
ここまで言われても、正祖は診察を承諾しません。よほど侍医たちに不信感を持っていたのでしょう。あるいは、侍医たちの後ろに貞純王后の影でも見ていたのでしょうか。
悪化する病状
旧暦の6月下旬というと、今の暦なら7月下旬か8月上旬です。都は猛暑で湿気も多かったはずです。そんな気候が正祖をさらに苦しめていました。
さすがに彼も耐えられなくなったのでしょう。ようやく侍医たちに腫れ物の患部を見せるようになりました。そのときでも、絶対に信頼できる人を同席させていました。
6月27日、高官の李時秀が病床の正祖に尋ねました。
「昨日の夕方は意識が朦朧(もうろう)とされたようですが、今も同じでしょうか」
すると、正祖は「こまごまと話すのが難しいようだ」と小さく言いました。侍医が脈を取ると、明らかに脈が弱くなっていたのです。
そのうち、正祖は自ら李時秀に指示を出しました。
「これからは病状にすぐ効く薬を使ったほうがいい。食欲が、ますますなくなっているから……」
この言葉を受けて新しい煎じ薬が用意されたのですが、すでに病状は深刻さを増していました。
6月28日になると、正祖は人参茶を少し飲みましたが、顔色が極端に悪くなっていました。
たまらずに李時秀が進言しました。
「優秀な医官を呼びましたので、脈をお取りになりますか」
すると、正祖はかぼそい声で嘆きました。
「今、病気についてすべて知っている者がどこにいるというのか」
すでに正祖は何も信じられない気持ちになっていました。それでも、側近たちの懇願で診察を受けて薬を処方されたのですが、病状は重くなるばかりで、その日のうちに意識を失ってしまいました。
一番大きな不運
正祖の病床のまわりで側近たちがうろたえている中、満を持して現れたのが貞純王后でした。それまで彼女は陰に隠れていましたが、正祖が意識を失ってから急に姿を見せたのです。
そこには、どんな意図があったのでしょうか。
貞純王后は正祖の側近たちに対して次のように命令しました。
「ご病状が先王(英祖のこと)のときと似ている。先王は回復されたので、当時の煎じ薬を調べ、良い薬をさしあげるようにせよ」
それでも、側近たちの反応は鈍かったのです。貞純王后は高官から「もはや話もなさらない状態です」と正祖の病状を伝えられると、「先王も、昏睡状態から一夜で回復したことがある」と声を荒らげました。
しまいに貞純王后は「私が薬を差し上げてみるから、みなの者はしばらく下がっておれ」と厳命しました。ここまではっきり言われると、重臣たちも下がるしかありません。誰もが正祖の病床から離れ、部屋の外で待機しました。
この時点で、正祖のそばにいたのは貞純王后だけです。彼女は祖母にあたるので、正祖の看病をするのは不自然ではありません。しかし、それは貞純王后が正祖の味方である場合にかぎります。
宮中では、2人の間に確執があることを多くの人が知っていました。それだけに、正祖の側近たちも気が気でなかったのです。部屋の外から神経を集中させて貞純王后の動向をうかがっていましたが、突然、慟哭する声が聞こえてきました。声の主は明らかに貞純王后でした。
驚いた側近たちは、あわてて部屋の中に駆け込みました。すぐに侍医による診察が行なわれたのですが、すでに正祖は息をしていませんでした。政治改革に情熱を傾けてきた名君は48歳で世を去ったのです。
亡くなったことが確認された瞬間、李時秀が貞純王后に対して大きな声を出しました。「どうしてこのように感情のまま行動されたのですか。国の礼法はとても厳正なものですから、すぐにお帰りくださいませ」
李時秀が憤慨したのは、主君の臨終に立ち会えなかったことが無念だったからです。その責任の一端が貞純王后にあるのは明らかでした。彼女が臣下の者たちを部屋から下がらせていなければ……正祖の臨終の言葉を聞けたかもしれないのです。
けれど、現実は冷徹でした。もし正祖が最後に何かを言ったとしても、それを聞くことができたのは貞純王后だけでした。彼女に都合が悪いことなら、握りつぶされるおそれもありました。
いずれにしても、正祖の最期をみとったのは、あろうことか最大の政敵である貞純王后ただ1人です。もっと単刀直入に言えば、貞純王后には正祖の死期を早める細工すら可能でした。
一番望んでいなかった人にみとられたというのが、正祖にとって一番大きな不運でありました。
ドラマ「イ・サン」の描き方
正祖の死後、宮中では「王は貞純王后によって毒殺された」という噂が流れるようになりました。火のないところに煙は立たない、と言いますが、この噂には十分な根拠があったのです。というのは、正祖が亡くなることで貞純王后は得るものが多くありました。しかも、たった1人で臨終に立ち会っており、そのことがまた様々な憶測を生んだのです。かぎりなく「黒に近い灰色」というのが正祖の側近たちの実感です。
実際、正祖が亡くなったあと、貞純王后はやりたい放題でした。正祖の息子が10歳で23代王・純祖(スンジョ)として即位しましたが、未成年であったために、貞純王后が王族の最長老という立場で摂政をしました。
すると、彼女は正祖が重用した大臣たちをやめさせて、正祖が進めていた改革をつぶしてしまったのです。それだけではありません。政敵にカトリック教徒が多いという理由で、貞純王后はカトリック教の大弾圧を行なって多くの人を虐殺しました。
結局、貞純王后は摂政を4年間行なって1804年に隠居し、翌年の1805年に亡くなっています。
そのあとの朝鮮王朝は、外戚(純祖の正室の実家)が政治を牛耳り、近代化が遅れて衰退への道を突き進みました。正祖がもう少し長生きして政治改革をやりとげていれば、違う道をたどることができたのでしょうが、この運命だけはどうしようもありません。
その正祖は、常に貞純王后を警戒していました。真相は藪の中ですが、状況証拠を積み重ねていくと、やはり貞純王后が正祖の命を狙ったと推理しても不思議ではありません。なんといっても、正祖が世を去って一番恩恵を受けたのが貞純王后だという事実は大きいのです。何よりも、彼女には一番の動機があったわけですから……。
ところで、正祖の生涯を描いた名作「イ・サン」には毒殺説がまったく出てきません。韓国で「正祖毒殺説」はあまりに有名なのに、なぜイ・ビョンフン監督は毒殺の疑惑を出さなかったのでしょうか。
それは、「イ・ビョンフン監督の作品は、主人公の成長を描くサクセスストーリー」ということが関係しています。苦しい境遇から自分の努力と才覚で成長していく主人公を描くのがイ・ビョンフン監督のスタイルです。しかし、最後が毒殺事件という形で終わると、物語が悲劇で終わってしまいます。そうしたくないという意図があって、イ・ビョンフン監督はあえて毒殺説を取り上げなかったのです。
ドラマ「イ・サン」では、正祖も一度は倒れましたが、なんとか持ち直して執務に復帰しました。その場面を映しながらカメラは後ろにグーッと引いてきて、次の場面になると、もう正祖の息子が王になっていました。つまり、正祖が亡くなる場面はまったく描きませんでした。そのおかげで、ドラマ「イ・サン」は明るい余韻を残して終わることができました。現実の歴史とは大きく違っている、と言わざるをえませんが……。
文=康熙奉(カン・ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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