姜沆(カン・ハン)は、李退渓(イ・テゲ)の教えを受けている。間接的とはいえ、李退渓の思想は日本にも影響を与えていたのである。現実に儒教は、江戸時代に武士階級の思想確立や生活規範としてかなりの隆盛を見た。
科挙について
江戸時代に儒教が通用したのは士農工商の「士」の世界のみであって、一般の民衆に儒教が特別の役割を果たすことはなかった。日本における儒教はあくまでも形而上学であったのだ。
一方、朝鮮半島ではどうだったのか。
朝鮮王朝における儒教は、当初は高麗王朝を否定する手段としての色彩が濃いものであった。高麗の末期から知識人の間に徐々に浸透していった儒教は、高麗に取って代わった朝鮮王朝の新しい国学となり、仏教寺院に支配されていた土地や奴婢を没収する際の手段に使われた。
同時に、儒教の形式的な儀礼は新興貴族の特権を確保していくうえで最適だった。
その朝鮮王朝儒教の象徴といえるのが李退渓である。1000ウォン札の表に彼の肖像画があり、学者として今でも韓国で最も尊敬を集めている人物の1人である。
結局、徳川幕府も朝鮮王朝政府も自らの政権維持に儒教を利用したが、両者で決定的に違ったのは「科挙」の有無である。
朝鮮王朝政府が官吏登用の手段として、朝鮮王朝以前から制度としてあった科挙をさらに強固にしたのに対し、徳川幕府は科挙とはまったく無縁だった。
そもそも、儒教の本家である中国では、天子の地位だけを例外として、その他の階級が世襲によって固定することを認めていない。
道徳と知識を備えた賢人が官吏として社会を動かすべきだという思想が強くあり、その賢人の有効な選抜機関として科挙を位置づけていた。それはそのまま朝鮮王朝でも踏襲されている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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