「コラム」朝鮮通信使(世界記憶遺産)の歴史〔3〕



2018.04.15

雨森芳洲の肖像画

朝鮮通信使による日朝交流の中で、中心的な役割を果たしたのが対馬藩であった。朝鮮通信使招聘の外交交渉もすべて対馬藩を通して行なわれていたし、朝鮮通信使が来日したときは、対馬から江戸までの往来もすべて対馬藩が先導役を担った。対馬藩の尽力なくしては、朝鮮通信使の来日も不可能であったといっても過言ではない。

対馬藩の立場
対馬藩は、藩をあげて日朝交渉を盛んにしなければならない事情をもっていた。朝鮮王朝との貿易は、藩にとって生命線であったからだ。
そもそも対馬は全島が山間部ばかりで田畑を開墾するのに適していなかった。
極貧にあった対馬は中世には倭寇の根拠地になってしまうのだが、同時に朝鮮半島との貿易に活路を見い出し、米が取れないかわりに交易によって生計をたてるようになっていた。

それだけに、文禄・慶長の役による日朝関係の破綻は対馬にとっては死活問題であった。開戦を回避すべく努力したが、その意は豊臣秀吉に受け入れられず、無謀な戦乱の中で対馬は疲弊した。秀吉の死後、対馬島主の宗家では率先して和議の仲介役となり、粘り強く国交再開を朝鮮王朝に働きかけている。
当初は朝鮮王朝側の憎悪も激しかったが、誠実さをもって捕虜の送還にあたったことが次第に評価され、豊臣の世から徳川の時代に変わったことも追い風となって、1607年に朝鮮王朝から回答兼刷還使(いわゆる第1回目の朝鮮通信使)を迎えることに成功するのである。こうして日朝国交回復の端緒は開かれた。(2ページに続く)