668年に高句麗(コグリョ)が滅んだあと、その領地に住んでいた遺民たちの運命は大きく分かれた。捕虜として唐に連れていかれた人もいれば、難民として新天地をめざした人もいる。ただし、多くの遺民は旧領地に残って、志がある人たちは唐への抵抗運動を続けた。
高句麗国王の姓
抵抗運動に手を焼いた唐は、高句麗の遺民たちをバラバラに地方へ移住させる政策を強行した。無理やり流浪の民にされたわけだが、遠く東に移住していく人の中に大祚栄(テジョヨン/?~719年)の姿もあった。
大祚栄には抜群の指導力があった。同じ境遇の人たちを集めながら徐々に力をつけていき、靺鞨(まっかつ)族の一部勢力とも結託して、敢然と唐に反旗を翻した。
唐は大軍を送ってきたが、大祚栄はこれを撃破すると、東牟山(トンモサン)に城を築いて新しい国を興した。
そして、国号を「震(チン)」として大祚栄は高王(コワン)となった。
この「高」といえば、高句麗国王の姓である。大祚栄には、震は高句麗の後継国だという強烈な自負があった。
彼はことあるごとに配下の者たちをこう鼓舞した。
「我々は高句麗の子孫だ。高句麗が滅んだあと、どれほどみじめな思いをしてきたことか。しかし、大帝国を復興して、高句麗の魂をこの土地に再び注ぐのだ!」
大祚栄の気構えは凄まじかった。
周辺の異民族とも協調しながら領土を沿海州まで広げ、三国を統一した新羅(シルラ)を圧迫するほどの勢いを見せた。
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