【時代劇が面白い】正祖の時代/康熙奉の朝鮮王朝人物史23

正祖(チョンジョ)の即位後の第一声が「朝鮮王朝実録」に詳しく出ています。そのとき正祖は居並ぶ臣下を前にしてこう言いました。「嗚呼!寡人は思悼世子(サドセジャ)の子なり」。この「寡人」というのは、王が自分のことをいうときの言葉です。

 

祖母に対する処罰は?
正祖が「嗚呼!寡人は思悼世子の子なり」と言ったとき、周りの重臣たちはこぞって恐れおののきました。その理由は、正祖が父の死に関わった者たちを絶対に許さない、という意思を示したと思ったからです。
実は、荘献(チャンホン)は処罰を受けて米びつの中で餓死していますので、いわば罪人扱いであり、正祖が荘献の息子のままでは王位を継承できません。そこで正祖は、荘献の兄で早世していた孝章(ヒョジャン)の養子になっていました。形のうえで正祖の父は孝章なのです。


ところが、王になった途端、正祖ははっきりと思悼世子の息子であることを宣言しました。その強い主張は「粛清の嵐」を予感させました。
結果は、その通りになります。荘献を陥れた人たちが次々に厳罰になりました。その中には、亡き父の妹や母の叔父も含まれています。これを見ても、荘献の身内にいかに敵対勢力がいたかがわかります。

一方、正祖が処罰すべきかどうかで悩んだ相手が祖母でした。この祖母というのは、英祖(ヨンジョ)の二番目の正妻だった貞純(チョンスン)王后のことです。英祖は最初の妻だった貞聖王后が亡くなったあとに51歳も若い後妻を迎えていて、それが貞純王后です。彼女は荘献を追い詰めた黒幕の一人になっていました。
正祖としても、ぜひとも父の怨みを晴らしたかったでしょうが、儒教社会では祖母を簡単には処罰できません。「孝」にそむく行為の最たるものだからです。王になってすぐにそういうことをしてしまえば、一気に人望を失ってしまったでしょう。しかも、貞純王后も断食をして処罰を逃れようとしていました。そのしたたかさは並ではありません。


「父親の無念を晴らすために処罰したほうがいいのか、それとも長幼の序を守って不問
にしたほうがいいのか」
正祖は悩みますが、結局は処罰しませんでした。これが正祖にとって大変な命取りになります。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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コラム提供:チャレソ

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2021.06.01