1598年、豊臣秀吉が世を去ったのを機に豊臣軍は引き上げました。この戦乱のさなかに、朝鮮半島から日本に5万人ほどが捕虜として連行されています。その多くは農民ですが、陶工も少なくありませんでした。九州の諸大名は陶工を捕虜にして、領地で焼き物を作り始めました。
王の後継者争い
変わっていたのは加藤清正です。彼は10代前半の頭のいい少年を多く日本に連れて帰りました。その中から、学識に優れた僧侶が何人も輩出しています。
なぜ、加藤清正は少年にこだわったのか。
実は、朝鮮半島では育ちのいい子供が儒学を熱心に勉強する風潮があり、全体的に漢学の素養が高いのです。
そこに目をつけた加藤清正は多くの少年を捕虜にして日本に送り、さらに学問を積ませて僧侶や儒学者にしています。そういう意味では、豊臣軍の攻撃を通して、朝鮮半島から日本へ頭脳流出が起こっていたといえるでしょう。
また、戦乱は朝鮮王朝の王の後継者問題にも影響を与えます。先にも触れましたが、宣祖(ソンジョ)の息子が戦乱の中で明暗を分けたのです。長男の臨海君(イメグン)は加藤清正に捕虜になってしまいましたが、次男の光海君(クァンヘグン)は地方に行って民兵を整備するなど手柄を立て、リーダーシップを発揮して活躍します。
儒教社会では、王であれ庶民であれ長男が家を継ぐのが原則で、臨海君は王になれる権利があったのですが、彼は釈放後もそのことを恥じて酒びたりになり、荒れた日々をおくります。弟の光海君のほうが出来がいいということになり、結局は宣祖も光海君を後継者に指名します。ただし、ことはそれで納まりませんでした。
実は、宣祖は庶子の出身です。わかりやすく言えば、側室の子供なのです。それまでの王はすべて正室が産んだ息子でしたので、宣祖は初めての庶子出身の王ということになります。このことを宣祖はずっと気にかけていました。
その宣祖も正室との間で子供をつくることがなかなかできませんでした。彼には懿仁(ウィイン)王后という妻がいましたが、彼女は息子を産めないままに1600年に亡くなりました。
王が妻に先立たれてずっと1人でいるわけにもいきませんから、宣祖は二番目の妻として仁穆(インモク)王后を迎えます。彼女は1584年生まれで宣祖より32歳も下でした。
1606年、永昌(ヨンチャンデグン)という息子が生まれました。待望の嫡男です。これで宣祖が長生きしていれば、永昌大君が光海君に代わって王になったと思われますが、1608年に宣祖は世を去ります。このとき、永昌はわずか2歳でした。さすがに、その幼さで王になるわけにもいきません。
そこで、既定事実として光海君が王になります。この光海君は、自分に批判的だということで兄の臨海君を殺害。異母弟の永昌大君も警戒し、幽閉後に残虐な方法で殺してしまいます。
けれど、政治的な改革を急すぎたことで、既得権を持っている人たちから危険な王とみなされました。また、兄弟たちを殺したことでかなり恨まれていましたし、仁穆王后を処罰したことで反感を買っていました。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
コラム提供:チャレソ