【時代劇が面白い】初めての廃妃/康熙奉の朝鮮王朝人物史9

9代王の成宗(ソンジョン)は資質が優れた王で、政治的業績も多いのですが、女性問題で何かとトラブルを起こしています。不運だったのは、最初の妻が10代で病死してしまったことです。王はすぐに再婚するのが常でしたから、成宗は二番目の妻として斉献(チェホン)王后を迎えます。

 

王の寵愛を失う
斉献王后は非常に嫉妬深い人で、成宗の側室を呪い殺そうとしました。そういう行為は大罪にあたります。なぜなら、朝鮮王朝時代には、呪術的な儀式で本当に人を呪い殺すことができると信じられていたからです。
現代的な感覚では「まさか?」と思うかもしれませんが、朝鮮半島には有史以来、独特のシャーマニズムが根づいており、呪術的な儀式を受け入れる下地がありました。


そもそも、シャーマニズムというのは、シャーマン(霊的なものと直接的に通じる宗教的な霊能者)を介して神霊や死霊などと交渉する原始的な呪術や宗教現象を言います。
このシャーマニズムの影響が朝鮮半島では歴史的に特に強く、現代でも朝鮮半島の地方に行くと、シャーマンを通して亡くなった人の霊と通じるようという儀式が行なわれているのです。朝鮮半島では、シャーマンは主に巫堂(ムーダン)と呼ばれています。
現代でも巫堂の霊的能力を信じる人がいるくらいですから、古い慣習が残っていた朝鮮王朝時代はなおさらでした。

その当時、巫堂は「神病」と呼ばれる宗教的な体験を通して神の霊感を獲得した人物とみなされ、神と対話ができる神権者の地位を得ていました。人間のすべての吉凶は神の霊によって決まると考えていた人たちは、巫堂を頼り、その人たちに願いごとを託すのでした。
その願いの多くは死者の霊を呼び戻すことであり、巫堂が独特な儀式を通して死者の霊と対話し、その言葉を依頼人に伝えました。さらには、特定な人物に対して「呪いをかけてほしい」と依頼する人もいます。


この場合、霊能者である巫堂は人の生死まで左右する特別な存在に祭り上げられますが、朝鮮王朝時代は巫堂の神秘性が過剰に評価されていたのも事実です。
いずれにしても、斉献王后は巫堂を使って成宗の側室を呪い殺そうとして王の寵愛を失います。それどころか、完全に嫌われてしまいます。
以後、王は側室の部屋を訪ね歩くだけで、正室の部屋に近づきませんでした。斉献王后の寂しさは募る一方でした。
ただ、時間が過ぎて成宗の心にも変化が生まれました。彼は久々に斉献王后の部屋を訪ねたいと思うようになりました。斉献王后にとっては、再び王の寵愛を受ける好機です。

しかし、結果はまるで逆になりました。実際に何があったのかが定かでないのですが、なんと、斉献王后が成宗の顔を引っかいてしまうという事件が起こりました。もともと感情が激しい女性ではありましたが、こともあろうに王に対してそんな無礼を働き、宮中で大問題になりました。
結局、斉献王后は王宮から追放されて廃妃になります。朝鮮王朝には廃妃になった王妃が何人もいますが、斉献王后はその最初の女性です。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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コラム提供:チャレソ

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2021.05.18