政権を失った豊臣家
状況が変わったのが1600年9月だった。
日本では豊臣の家臣団が東西に分裂して天下分け目の決戦にもつれこんだ。関ケ原の合戦である。この戦いに勝利したのが東軍の徳川家康で、彼が豊臣家から政権を奪うことが確実の情勢となった。
朝鮮半島でも変化があった。戦乱が終わってもしばらく駐留していた明の軍勢が故国に引き揚げた。再度日本からの襲来があった場合、朝鮮王朝は単独で対処しなければならなくなった。
しかし、そんな心配はいらなかった。朝鮮王朝にとって家康は、仇敵の豊臣家を没落させてくれた人物であった。しかも、家康は戦乱時に配下の者を1人も朝鮮半島に出兵させていなかった。和平の話し合いを始めるにあたり、家康ほど好ましい相手は他にいなかった。
その家康は、征夷大将軍になって1603年2月に江戸幕府を開いた。念願をかなえた家康にとって、最後の望みは徳川家が将軍職を代々引き継ぐことだった。
障害がまだ多かった。気掛かりなのは、秀吉の遺児の秀頼が大坂城にいることだった。豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかついで幕府に反旗をひるがえすことも十分に予想された。なにしろ、徳川幕府には政権の正統性に疑問符が付いていたからだ。
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